鼻 (芥川龍之介)

芥川龍之介『鼻』：人間の深層心理を描く傑作

芥川龍之介の初期短編小説『鼻』は、1916年に『新思潮』創刊号に掲載された、彼の代表作の一つです。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に収録されている鼻の長い僧の話を題材に、独自の解釈を加えて創作されました。夏目漱石からも絶賛されたこの作品は、人間のねたみ、嘲笑、そして自尊心の脆さを鋭くえぐり出し、読者に深い問いを投げかけます。

物語の概要

物語の主人公は、池の尾に住む禅智内供という高僧です。彼の特徴は、5、6寸（約15～18cm）もある異常に長い鼻。この滑稽な容姿ゆえに、人々から嘲笑の的となり、陰口を叩かれる日々を送っていました。内供は内心では深く傷つきながらも、その気持ちを隠して平静を装っていました。

ある日、内供は弟子を通じて、鼻を小さくする方法を知ります。治療後、彼の鼻は短くなり、周囲からの嘲笑は消え去るかに思われました。しかし、皮肉にも、鼻が短くなったことで、今度は新たな嘲笑の対象となるのです。人々は、以前は同情していた内供を、今度は冷酷な視線で見つめ始めました。

この経験を通して、内供は人間の心の複雑さを痛感します。人は他人の不幸に同情を示す一方で、その不幸が解消されると、今度はその人の成功を妬み、再び不幸に陥れようとする暗い感情を抱くことがあるのです。内供は、鼻が短くなったことを恨み、再び長い鼻を取り戻すことを願うようになります。

そして、ある夜、内供は激しい鼻のかゆみに襲われ、眠れない夜を過ごします。翌朝、目覚めると、彼の鼻は元の長さに戻っていました。この出来事を通して、内供は初めて心の平安を見出します。

作品のテーマ

『鼻』は、単なる滑稽な物語ではありません。表面的な笑いの中に、人間の深層心理が隠されています。作品が問いかけているのは、人間のねたみ、嘲笑といった負の感情、そして自尊心の脆さです。他者の不幸を喜ぶ人間の心理、そしてその心理がもたらす悲劇的な結末は、読者に深い衝撃を与えます。

同時に、作品は心の平安の在り方についても示唆しています。長すぎる鼻に悩まされ、周囲からの嘲笑に苦しんだ内供は、最後に元の鼻を取り戻すことで、初めて心の安らぎを得ます。これは、自己受容の大切さを示唆していると言えるでしょう。

作品の影響と評価

『鼻』は芥川龍之介の出世作として知られ、多くの読者や批評家から高い評価を受けています。その独特のユーモアと、人間の深層心理をえぐる鋭い描写は、今日でも多くの人の心に響き渡ります。また、この作品は、幾度となく映像化されており、小説の持つ普遍的なテーマが、現代においても色あせていないことを示しています。

『鼻』は、軽妙な語り口の中に、人間の複雑な感情と心の弱さ、そして自己受容の重要性を深く描いた、芥川龍之介を代表する名作です。一見、ユーモラスな物語に見えますが、その奥底には、人間の心の闇と、心の平安への希求が描かれている、考えさせられる作品と言えるでしょう。

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