龍田寮事件

龍田寮事件は、1953年（昭和28年）から約2年間にわたり、熊本県熊本市黒髪町下立田（現在の同市中央区黒髪5丁目）にあった「龍田寮」の児童たちの通学を巡って発生した教育行政上の問題です。この児童たちは、国立療養所菊池恵楓園に入所しているハンセン病患者の健康な子どもたちでした。事件は「黒髪校事件」とも呼ばれ、学校、教育委員会、保護者、地域住民、さらには国会をも巻き込み、人権、教育を受ける権利、医療と科学、そして差別といった重要な課題を社会に突きつけ、全国的な注目を集めました。

事件の背景

ハンセン病の患者が療養所に入所する際、健康な子どもたちの処遇が長年の課題でした。可能な場合は親族が引き取ることが望まれましたが、それが困難な場合には委託されることとなりました。九州療養所（後の菊池恵楓園）では、待労院に委託し、委託料を支払うなど対応に苦慮していました。

患者の子弟を収容する施設として、1935年（昭和10年）にらい予防協会立の保育施設「恵楓園」が九州療養所に設立されました。1941年（昭和16年）に九州療養所は国立療養所菊池恵楓園と改称。同年には、ハンナ・リデルが創設した回春病院も廃止され、らい予防協会に寄贈されました。この回春病院からの寄付金の一部が、恵楓園と同規模の龍田寮建設に充てられ、以前の恵楓園にいた子どもたちが収容されることになりました。学齢期の子どももいたため、黒髪小学校龍田寮分校が開設されましたが、教師は助教諭1人のみで十分な教育環境とは言えませんでした。中学生や高校生は地元の学校に通学していました。

恵楓園は、1942年（昭和17年）には龍田寮の子どもたちを黒髪小学校本校に通学させたいと熊本市に要望し、市側は了解したものの、黒髪小学校の保護者の強い反対にあい、実現には至りませんでした。

本校通学の申し入れと対立の始まり

1953年（昭和28年）11月、菊池恵楓園園長の宮崎松記は黒髪小学校を訪問し、龍田寮の子どもたちの本校通学問題を翌年4月までに解決してほしいと申し入れました。学校長はPTAの了解があれば通学を認めると回答。宮崎園長はPTA会長（当時熊本県議会議長）の瀬口龍之介を訪ねましたが、瀬口会長は慎重な対応を求め、話し合いは進展しませんでした。事態打開のため、宮崎園長は12月2日に熊本法務局に対し、「龍田寮の健康な子どもたちの黒髪小学校本校通学に関する差別的取り扱い撤廃」を求める申告書を提出しました。これを知った瀬口会長は、「この問題は啓発活動が先行しなければならない。しまった」と漏らしたとされます。園長とPTA会長はともに医師であり、一方は国立療養所の代表者、他方は県の政治に携わる人物という立場の違いもあり、問題は当初から平行線をたどる様相を呈しました。

行政の方針と反対運動

12月9日に開かれたPTA総会には、宮崎園長、瀬口会長に加え、市教育委員長、教育長、地元市議会議員らが出席しました。PTAによるアンケートでは、回答した家庭の約64%が通学に反対、賛成は約34%という結果でした。一方、熊本地方法務局は、全国の他の施設では同様の子どもたちが問題なく通学していること、九州大学の専門家（細菌学、皮膚科教授）が「現状であればハンセン病感染は考えられない」との医学的見解を示したことを踏まえ、通学拒否は不当であるとの見解を示しました。さらに、法務省、文部省、厚生省の3省も、「通学拒否は妥当ではない」という統一見解を打ち出しました。

これらの見解に基づき、1954年3月1日、熊本法務局長室で法務局、市教育委員会、恵楓園の関係者間で話し合いがもたれ、以下の基本方針が決定されました。(1)市教育委員会は1954年4月以降、龍田寮の子どもたちを全面的に黒髪小学校本校に通学させる。(2)菊池恵楓園は、通学児童の健康管理を厳密に行う。

この決定に対し、反対運動が巻き起こりました。3月1日には黒髪小学校校庭で町民大会が開かれ、通学反対の意見が表明されました。3月10日、市教育委員会は市議会で入学許可の決定を答弁。翌日これがラジオで報道されると、PTAの態度はさらに硬化しました。同日夜、反対派約500名が市教育委員会に陳情デモを行い、翌12日には同盟休校を実行すると表明しました。

同盟休校と混乱

1954年4月2日、新1年生4名が熊本大学皮膚科で診察を受け、異常がないと診断されました。これを受け、市教育委員会は4月7日、翌8日からの通学開始を通告。これに反発した反対派は4月8日から同盟休校に入りました。同日、黒髪小学校の校門には「らいびょうのこどもと、いっしょにべんきょうせぬように、しばらくがっこうをやすみませう。」といった、子どもたちの心を傷つける差別的な張り紙が掲げられました。熊本日日新聞は社説で、これを「愛情の名にふさわしからぬ憎しみ」と批判しました。龍田寮の1年生4名は保母に付き添われて登校しましたが、全校生徒1,928名のうち登校したのはわずか76名でした。反対派の児童たちは17ヶ所の自習場で「寺子屋」式の授業を受けました。

その後、市議会文教委員会は4月21日に調停案を提出。4月末までの休校指示と、再度熊本大学での診断を求めました。4月27日に再診断が行われた結果、4名のうち1名が「要観察」とされました。この結果を受けて、再び反対運動の火の手があがります。5月1日、市文教委員会は、3名を通学させ、1名は龍田寮内の分校から通学させるという最終的な調停案を提示し、これが受け入れられました。しかし、この間の心労で当時の校長は健康を害し、小崎東紅が急遽後任の校長に就任しました。

収束と事件の終結

混乱はすぐに収まることはありませんでした。1954年6月15日には、通学反対派が龍田寮そのものの廃止を要求するなど、両者間の陳情合戦が激化しました。当時の大達茂雄文部大臣が熊本県庁を訪れた際も両者から陳情を受け、参議院文部委員会でも同様の状況が展開されました。

1955年（昭和30年）、市教育委員会が入学通知書を送付すると、反対派の3名が市教育委員会前でハンガー・ストライキを決行。事態打開のため、熊本商科大学学長の高橋守雄と熊本大学学長の鰐淵健之が斡旋に乗り出しました。高橋学長が責任をもって児童（男児1人、女児2人）を引き取り通学させるという調停案が受け入れられ、155時間に及んだハンガー・ストライキは中止されました。児童は高橋学長の自宅ではなく、黒髪校区内の某所に預けられたとされています。この影響で、1955年度の入学式は4月18日に延期されました。通学には保母ではなく、他校の女性教師が付き添いました。当時の校長、小崎東紅は、通学が始まった後に反対派のリーダーの孫が新入生のクラスの清掃を手伝いに来たことや、反対派の子や孫たちが新しく来た子どもたちを思いやる姿に救われたと述懐しています。

黒髪小学校では、通学する子どもたちが他の児童養護施設などに引き取られるまで、非常に繊細な対応が求められました。子どもたちの周囲は賛成派の児童で固められ、席替えは行わず、給食にも特に注意が払われました。学籍簿も校長にすら知らされないという徹底ぶりでした。1955年秋以降、子どもたちは親戚や熊本県下10ヶ所の児童養護施設へ極秘のうちに引き取られていきました。そして、事件から2年後の1957年（昭和32年）10月には、龍田寮の用途廃止が決定されました。

龍田寮事件は、ハンセン病に対する根強い偏見が教育の場に持ち込まれた悲劇的な出来事であり、感染の恐れがない健康な子どもたちまでが差別された問題として、日本の人権と教育の歴史に大きな教訓を残しました。

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