ADT (音響機器)

ADT

ADTとは、人工的または自動的なダブル・トラッキング（Artificial Double Tracking / Automatic Double Tracking）の略称です。これは、同じ音源を二重に重ねて録音する手法であるダブル・トラッキングと同様の効果を、実際の重ね録りを行うことなく作り出す技術を指します。

開発の背景

この技術が生まれたのは1966年、ビートルズがアルバム『リボルバー』を制作していた頃です。当時、リード・ボーカルなどをより豊かに響かせるために、同じパートをもう一度歌って重ねるダブル・トラッキングが頻繁に行われていました。しかし、ボーカルのジョン・レノンは、毎回同じ歌を二度歌う手間を省きたいと考え、「機械でダブル・トラッキングを作れないか」と提案しました。この要望に応え、EMI ロンドン・スタジオ（現アビー・ロード・スタジオ）のテクニカル・エンジニアであったケン・タウンゼント氏らが、テープ・レコーダーを応用したこの画期的なシステムを考案・実用化しました。

ダブル・トラッキングの概念

ADTが代替する「ダブル・トラッキング」とは、文字通り歌や楽器演奏において、同じパートを意図的に二度繰り返して録音する手法です。これにより、微妙なタイミングやピッチのずれが生じ、音に厚みや広がりが生まれるほか、独特のコーラス効果を得ることができます。この技術は1950年代初頭から存在し、マルチトラック・レコーダーの登場以降、レス・ポールやバディ・ホリーといったアーティストも積極的に活用していました。ビートルズもまた、リード・ボーカルやコーラスにこの手法を多用していましたが、ADTの開発によってそのプロセスが大きく効率化されました。

ADTの仕組み

ADTは、特定の機材として製造されたものではなく、既存のテープ・レコーダーを組み合わせたシステムとその運用方法を指します。その基本的な原理は、合計2台のテープ・レコーダーを使用することにあります。

1台目のレコーダーは元の音源を再生します。この際、通常の再生ヘッド（リプロ・ヘッド）からの出力に加え、録音ヘッド（シンク・ヘッド）からも同時に音声を送り出せるように改造が必要な場合があります。シンク・ヘッドからの再生音は、時間的にわずかに先行しています。

このシンク・ヘッドからの信号を、2台目のレコーダーに入力し、録音します。そして、2台目のレコーダーのリプロ・ヘッドからその録音された音を取り出します。この2台目のレコーダーのリプロ・ヘッドからの音は、元の1台目のリプロ・ヘッドからの音に対して、物理的なヘッド間隔によって生じる時間差を伴います。この時間差のある音を、元の音（1台目のリプロ・ヘッドからの音）とミックスすることで、疑似的なダブル・トラッキング効果を作り出すのです。

時間軸の操作

よりリアルな効果を得るために、この時間差を意図的に変動させることが重要です。アビー・ロード・スタジオでは、テープ・レコーダーの走行速度を制御するため、キャプスタン・モーターに供給する電源の周波数を自在に変えられる装置を製作しました。電源周波数を上げる（例えば50Hzから増加させる）とテープ速度が上がり、ヘッド間隔の時間差が短縮されて再生タイミングが前へずれます。逆に周波数を下げる（50Hzから減少させる）とテープ速度が遅くなり、時間差が延長されて再生タイミングが後ろへずれます。

さらに、実際のダブル・トラッキングで生じる演奏や歌唱の微妙な揺らぎを再現するため、電源周波数を連続的に細かく変動させたり、テープのリールに物理的な負荷をかけたり、キャプスタン軸を加工したりすることで、意図的にワウ・フラッター（テープ走行の回転ムラによるピッチやタイミングの変動）を与えます。これにより、より自然で有機的な時間軸の揺らぎを生み出し、単なるディレイ効果とは異なる豊かな響きを実現します。

派生効果

ADTの原理である微細な時間軸の揺らぎは、疑似ダブル・トラッキング以外にも応用されました。数ミリ秒単位で時間差を連続的に変動させることで、特徴的なうねりを生み出すフランジング効果やフェイジング効果も生成することが可能です。このため、ADTの運用方法は、その後のアナログ・テープレコーダーを用いたフランジャーやフェイザーといったエフェクト開発の先駆けともなり、多くのレコーディング・セッションで活用されました。

ビートルズにおける主なADT使用例（『リボルバー』収録）

「タックスマン」ジョージ・ハリスン（リード・ボーカル）
「エリナー・リグビー」ポール・マッカートニー（リード・ボーカル）
「アイム・オンリー・スリーピング」ジョン・レノン（リード・ボーカル）
「アンド・ユア・バード・キャン・シング」ジョン・レノン（リード・ボーカル）
「ドクター・ロバート」ジョン・レノン（リード・ボーカル）
「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」ジョージ・ハリスン（リード・ボーカル）
「トゥモロー・ネバー・ノウズ」ジョン・レノン（リード・ボーカル）

外部リンク

Abbey Road Studios （英語）

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