パウル・クレー

パウル・クレー：音楽と色彩の魔術師

パウル・クレー(1879-1940)は、20世紀を代表するスイスの画家であり、美術理論家です。その作風は表現主義やシュルレアリスムといった既存の枠には収まらず、独特の美意識と革新的な表現方法で知られています。音楽一家に生まれ、幼少期からヴァイオリンに親しみ、プロ級の腕前を持つ彼は、音楽と絵画、そして文学の境界を自由に越境する稀有な芸術家でした。

音楽と芸術の融合

クレーの父は音楽教師、母は声楽家という音楽一家で育ちました。彼自身も11歳でベルンのオーケストラに参加するほどのヴァイオリンの腕前で、1906年に結婚した妻もピアニストでした。この音楽への深い造詣は、彼の作品に大きな影響を与えています。バッハやモーツァルトといった古典音楽から、ストラヴィンスキーやヒンデミットといった現代音楽まで、幅広い音楽への理解は、彼の絵画の主題や表現方法に反映されています。ポリフォニーやフーガといった音楽用語が作品タイトルに使われることもありました。絵画に専念した後も、日々の生活の中でヴァイオリンを演奏し、詩を創作するなど、音楽と文学への情熱は生涯に渡って失われることはありませんでした。18歳から書き始めた日記には、日々の出来事だけでなく、絵画や芸術に対する自身の考えが克明に綴られており、彼の芸術家としての成長過程を垣間見ることができます。

ミュンヘン、イタリア、そして青騎士

1898年、クレーは芸術の都ミュンヘンに移り住み、ミュンヘン美術学校で象徴主義の巨匠、フランツ・フォン・シュトゥックに師事します。しかし、画一的な学校教育に馴染めず、1年で退学。その後、イタリアを旅行し、ルネサンスやバロックの芸術に触れ、特に建築の純粋な形態から多大な影響を受けました。ミュンヘンに戻った彼は、1906年に結婚し、翌年には息子フェリックスが誕生します。無名の画家だったクレーは、妻リリーのピアノ教師としての収入で生活を支えながら、育児や家事に積極的に関わりました。その様子は詳細な育児日記として残されており、彼の家庭的な一面を窺い知ることができます。

ミュンヘン分離派展への出品や個展開催を経て、クレーはカンディンスキーやフランツ・マルクらと出会い、「青騎士」グループに参加。このグループは、既存の芸術様式にとらわれず、独自の表現方法を模索する革新的な芸術家集団でした。ロベール・ドローネとの交流やピカソ、マティスの作品との出会いも、彼の芸術観に大きな影響を与えました。特にドローネのエッセイ『光について』の翻訳は、クレーの光と色彩への探求を加速させました。ヴォルテールの『カンディード』の挿絵制作は、クレーの絵画における抽象化への重要なステップとなりました。

チュニジアの光と色彩

1914年のチュニジア旅行は、クレーの画業における転機となりました。鮮やかな色彩と光に満ちた北アフリカの風景は、彼の感性を刺激し、作風を一変させました。「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」という言葉が示すように、この旅行以降、彼の作品は鮮やかな色彩に彩られるようになります。この旅行後、クレーは抽象絵画にも取り組み始め、表現の幅を飛躍的に拡大しました。

第一次世界大戦とバウハウス

第一次世界大戦の勃発は、クレーにも大きな影響を与えました。親友であるマルクの戦死は、彼に大きな衝撃を与え、クレー自身も従軍経験を持ちます。しかし、この経験は同時に、彼の芸術家としての評価を高めることにも繋がりました。この頃からクレーは絵に文字を組み込んだり、具象と抽象の境界を曖昧にした作品を制作するようになります。この時代の作品には、抽象的でありながらも「かたち」への意識が強く見られ、後の作品の特徴となる要素が既に現れています。

1920年代、クレーはミュンヘンで個展を開催し、『創造的信条告白』を発表、現代美術の第一線に位置する画家として広く認知されるようになりました。1921年から1931年にかけては、ヴァルター・グロピウスの招聘を受け、バウハウスで教鞭を執り、造形や色彩に関する講義を行い、多くの理論的著作を残しました。カンディンスキーとの共同授業や、ニューヨーク、パリでの個展開催、シュルレアリスム展への参加など、国際的な活動も盛んに行いました。エジプト旅行も、彼の作品に多大な影響を与えました。

ナチス政権と亡命

1933年、ナチス政権の成立により、クレーは前衛芸術家への弾圧を受けます。美術学校からの休職、アトリエの家宅捜索などの出来事を経て、クレーは妻リリーと共にスイスのベルンに亡命しました。経済的困窮や難病発症といった困難に直面しながらも、旺盛な創作意欲を保ち続けました。晩年の作品は、単純化された線による独特の造形が特徴です。1940年、療養先のサンタニェーゼ療養所で亡くなりました。

クレーの芸術とその後

クレーの作品は、キャンバスだけでなく、新聞紙、厚紙、布など様々な支持体と、油彩、水彩、テンペラなど様々な画材を用いて制作されています。小規模な作品が多いことも特徴です。彼の作品は、通常の絵画とは異なる素材や技法を用いることで、独自の表現世界を築き上げています。

2005年には、ベルンに「ツェントルム・パウル・クレー」が開館し、約4000点の作品が収蔵されています。彼の作品は世界中の美術館に所蔵されており、現在も多くの芸術家や美術愛好家に影響を与え続けています。ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」論も、クレーの作品『新しい天使』に触発されたものです。

パウル・クレーの芸術は、音楽と絵画、具象と抽象、そして伝統と革新といった様々な要素が融合した、独自の表現世界です。彼の生涯と作品は、現代美術史における重要な位置を占めており、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう。

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