青木まりこ現象

青木まりこ現象とは、書店に足を運んだ際に突然、通常は大便に関わる便意を感じるという現象を指します。このユニークな呼び名は、1985年にこの体験を雑誌に投稿した一人の女性の名前に由来しています。

概要

書店で便意が引き起こされる具体的な理由は、2014年の時点でも専門家によって明確には解明されていません。そもそも、このような一見奇妙な現象が本当に多くの人に起こるのか、懐疑的な意見も存在し、都市伝説として語られることもあります。しかしその一方で、生理学や心理学といった学術的な知見から、この現象の発生メカニズムを明らかにしようと試みる研究者や識者も少なくありません。

書店に滞在中に突如便意を自覚するという一連の流れは、現在の医学的な観点からは、特定の病気として統一的に説明できるものではありません。たとえこの現象の実在が広く認められるとしても、「青木まりこ病」のように具体的な疾患単位とみなすことは困難とされています。一方で、この現象に言及する際、既存の診断学や病理学で用いられる医学用語を適用する専門家（特に臨床医）も少なからず見られます。本記事でも、便宜上このような立場に倣い、関連する医学用語を準用して記述します。

歴史

「青木まりこ現象」という名称が生まれる以前から、日本文学の中には書店と便意の関係を示唆する記述が見られます。例えば、吉行淳之介の1957年の作品や、豊田穣（1972年）、ねじめ正一（1981年）のエッセイなどにも類似の体験談が確認できますが、いつ頃から広く話題になり始めたかは定かではありません。しかし、遅くとも1980年代には既にメディアで取り上げられていたと考えられます。1984年にはテレビキャスターの須田哲夫が雑誌で同様の経験を語り、ラジオ番組では「山田よし子症候群」として言及されたこともあります。また、1984年発行の『本の雑誌』にも類似の読者体験談が掲載されていました。

命名とその後の反響

「青木まりこ現象」という名称が定着したのは、1985年に雑誌『本の雑誌』に掲載された読者投稿がきっかけです。当時29歳の女性「青木まりこ」さんからの、「数年前から書店に行くたびに原因不明の便意を催すようになった」という短い投書が、編集部の興味を引き掲載されました。この投書が予想外の大きな反響を呼び、多くの読者から同様の体験談が寄せられたため、『本の雑誌』は次号で「いま書店界を震撼させる現象」と題した特集記事を組みました。この特集の中で、書店での突然の便意は、投稿者の名前にちなんで「青木まりこ現象」と名付けられました。当時の「〇〇現象」という言葉の流行も、この名称の広まりを後押ししたと指摘されています。この特集は大きな反響を呼び、週刊文春などの他メディアもすぐに後追い記事を掲載しました。

投稿者である青木まりこさん自身も、その後複数回『本の雑誌』の取材を受けています。彼女は自身の名前が現象名に使われたことについて特に気にしていない様子でした。また、自身の体験が広く知られることで、便秘に悩む人々にとって朗報となるかもしれないという期待も示されています。この現象はその後も様々なメディアで断続的に取り上げられ、多くの憶測を呼びながら語り継がれています。

1990年代には、この現象を荒唐無稽な都市伝説と捉える向きがある一方で、専門家による詳細な考察も現れ始め、実在する現象として認識されるようになります。これは、同時期に放送されたテレビ番組の影響が大きいと考えられます。1995年にはNHKの生活情報番組で好意的に紹介され、1998年にはTBSのバラエティ番組で、体験者である有名人や専門家を交えた大規模な検証企画が複数回にわたり放送されました。

2000年代以降、インターネットの普及により、青木まりこ現象はさらに多くの人に知られるようになりました。「書店、便意」といったキーワードでの検索により、関連情報に簡単にアクセスできるようになり、現象を解説するウェブサイトが多数登場しました。週刊誌『アエラ』の特集記事（2003年）も知名度向上に寄与しました。書店にはこの現象について研究するために取材に訪れる学生も見られるようになったといいます。2012年にはテレビのクイズ番組で「青木まりこ現象」が問題として出題されるなど、一般的な言葉としてある程度認知されていることがうかがえます。医学や生理学の正式な用語ではないものの、そのユニークさと広がりから「正式名称」として紹介されることすらあります。

体験者の特徴（疫学）

青木まりこ現象を体験した人々は、『本の雑誌』の特集記事中で「書便派（しょべんは）」と呼ばれました。書便派に関する大規模な統計調査は行われていませんが、小規模な調査からはいくつかの傾向が示されています。地域による差は見られない一方で、男女比は1対4あるいは1対2と、女性にやや多い傾向があるという報告があります。体育会系の男性には少ないという説もあります。推定される有病割合は10人から20人に1人、日本全国には数百万人の体験者がいるという概算もあります。あるウェブアンケートでは、22歳〜33歳の働く女性の約27%が「本屋にいると便意を感じることがある」と回答しています。好発年齢は20〜30代が多く、成人での発症が目立ちますが、小児の症例報告も存在します。家族歴による発症頻度の差は見られないことから、誰にでも起こりうる現象と考えられます。ただし、青木まりこさんの母親は、自身の弟にも同様の症状があることから、遺伝的な背景の可能性も感じています。この現象は、人から人へ体験談が伝わることで、自身も症状を自覚しやすくなる傾向があることが知られています。

職業別では、作家や出版関係者に体験者が多いと言われています。その反面、書店の従業員や書店経営者の親族には発症しにくい傾向があるという見方もありますが、書店関係者の発症例も皆無ではありません。

症状（臨床像）

青木まりこ現象の典型的な症状は、書店に比較的長時間滞在すること、あるいは本に関わる特定の状況に置かれることをきっかけとして、突然、我慢できないほどの便意（主に大便）が出現することです。これは「書店に関連した原因不明の便意」と表現されます。医学的には病気ではないとされていますが、一部の体験者や識者はおどけた文脈で疾病になぞらえることもあります。重症の場合には、便意が生活の質に影響を与え、書店に長時間いられなくなったり、必要な本を他人に買ってきてもらったり、極端な場合には書店に近づかなくなる例も報告されています。

便意は突然現れ、下腹部の切迫感、全身の戦慄、顔面蒼白、冷汗、独特の歩き方（ガニマタ状）などを伴うことがあります。腸がぐるぐる鳴るなどの他覚的な症状も聞かれます。便意だけでなく、胃痛、下痢、あるいは尿意や頻尿を訴える例も存在します。便意の性質は「直腸を突き上げるような」「お腹がヒクヒク痛い」などと表現され、その強さは「次に本屋に行くのが恐くなるほど」と形容されることもあります。前駆症状はなく、体調に関わらず突然起こりうると言われています。精神的な影響としては、「情けない思い」「予期不安」などが挙げられます。

誘因となる状況

青木まりこさん本人は「長時間本屋にいる」「長時間新しい本の匂いを嗅ぐ」ことで症状が誘発されると述べていますが、本の種類は問わないとしています。便秘気味の時や、寝酒をした翌朝に起きやすいとも語っています。

場所に関しては、大型書店や洋書売場、新刊書店だけでなく古書店や図書館、さらにはCD店やレンタルビデオ店、ゲームショップなどでも報告されています。書店から外に出ると症状が落ち着く例もあります。便意を感じやすい瞬間としては、本の背表紙を眺めている時、書棚を覗いている時、立ち読みしている時などが挙げられます。文芸書などの「真面目な本」や、探すのが難しい本を扱っている場合に症状が強く出やすいという意見もあります。書店でアルバイトを始めたら症状が治まったという興味深い報告もあります。

原因に関する考察（病態）

青木まりこ現象の正確なメカニズムについては、いまだ統一された見解は得られていません。多くの識者が自身の体験や見解に基づいた様々な説を提唱しており、科学的な検証は少ないのが現状です。体験者自身も、書店での便意という切迫した症状に対し、何らかの原因を模索し、自己流の解釈モデルを持つ傾向があります。

様々な仮説

原因として多く挙げられるのは、書店という特定の環境に存在する物理的または化学的な刺激です。新しい本の匂い、インクの匂い、紙の成分などが便意を誘発するという説は根強く存在しますが、古書店や図書館、印刷所では症状が出ないという反例や、匂いと無関係な場所での発症例もあり、決定的な証拠はありません。書店内の温度（冷えすぎなど）を挙げる意見もあります。また、整然と並んだ本棚の様子や、活字を見る行為が脳を刺激するという説もあります。

心理的な要因も重要な要素と考えられています。書籍に囲まれることによる緊張感や焦燥感、情報の洪水による圧倒感などが自律神経を刺激し、腸の動きを促すという説があります。特に、文筆家や出版関係者に体験者が多いという報告は、活字に対する精神的なプレッシャーを示唆しています。また、好きなものに触れたときの「ワクワク」といった高揚感が関わるという説もあります。精神科医の中には、過敏性腸症候群や不安障害といった心身症や精神疾患の一種として捉える向きもあります。書店にトイレが少ないことに対する「予期不安」や「強迫観念」といった不安障害の要素も指摘されています。

一方で、書店が持つ独特の雰囲気がリラックス効果をもたらし、抑制されていた便意が解放されるという逆説的な説も提唱されています。ストレスの多い日常から離れ、好きな本を探す行為が心身をリラックスさせ、副交感神経を優位にするという考え方です。ただし、他のリラックス方法では便意が起きないという反論もあります。

身体的な要因としては、立ち読みの姿勢や視線に注目した説があります。直立した姿勢や、本の背表紙を目で追う際の視線移動が腸の動きを促すという考え方です。また、書棚の圧迫感や、前屈みになる動作が直腸の形を変えるという説も提唱されています。まぶたの動きと自律神経の関係から、伏し目がちになる立ち読み姿勢が副交感神経を優位にするとする説は比較的有力視されていますが、これだけでは説明できないケースもあります。

臨床心理士の笠原敏雄氏は、独自の概念である「幸福否定」説を提唱しています。これは、自分にとって利益になる行動（ここでは関心のある本を探す・読むこと）を意識すると、それに対する無意識の「抵抗」が身体症状（便意など）となって現れるという考え方です。書店に長時間いることよりも、関心あるものを求める行為自体がトリガーとなるとし、便意以外の様々な不快な「反応」を含めて広義の青木まりこ現象と捉えています。

その他、哲学的・形而上学的な考察も行われています。読書と排便という行為が「自己の内面の自覚」という点で共通するとする説や、精神が書籍に没頭しすぎるのを防ぐための身体からの警告シグナルだとする説、さらには「本の霊力」が原因だとするユニークな説もあります。

また、現象の実在性に消極的な見方として、書店に行くタイミングと生理現象（食事後の散歩など）が偶然重なることによる交絡因子や、単に偶然書店で便意をもよおしたことが強く印象に残るマーフィーの法則として説明できるという説も存在します。

対策と有効活用

青木まりこ現象の原因が不明確なため、体験者はそれぞれ状況に応じた対策を講じています。事前の準備として、書店に入る前にトイレの場所を確認したり、事前に用便を済ませてから行くことが推奨されています。腸の動きが活発になる午前中を避け、午後に書店に行くという方法も提案されています。入店後は、症状が出る前に必要な本を購入し、短時間で店を出る（目安30分以内）ことが有効とされます。症状が出やすい特定の場所（難易度の高い書籍コーナーなど）を避けるのも一つの方法です。緊急時の対処法としては、書棚の前でしゃがみ込み、かかとで肛門を圧迫する「コビキ」と呼ばれる方法や、太ももをつねるなどして交感神経を刺激する方法が体験者によって語られています。

症状が重い場合は、過敏性腸症候群や不安障害といった診断がつき、医学的な治療を受けることもあります。しかし多くの場合、自然に軽快することも多く、予後は良好と見られています。

この現象を有効活用する試みもあります。青木まりこさん自身が便秘解消法として利用していたように、書便派の中には意識的に書店を訪れて排便を促す人もいます。タレントの関根勤氏やヴィレッジヴァンガードの社長も、この現象を便秘に悩む人よりは幸せなことと捉えたり、便秘解消に活用していると語っています。テレビ番組でも便秘解消に役立つ方法として紹介されたことがあります。また、この珍しい体験を共有できる者同士が、連帯感を深めるきっかけとなるという側面もあります。

社会的な側面

書店におけるトイレ問題

青木まりこ現象の広がりは、書店におけるトイレの設置状況という社会的な問題にも光を当てました。管理コスト、衛生問題、万引きなどの防犯上の懸念から、書店ではトイレが設置されていない、あるいは利用しにくい場所に設置されていることが少なくありません。これは「書店は長居する場所ではない」という考え方に基づいているという声もあります。しかし、郊外型の大型書店などでは、清潔なトイレが顧客誘引につながるという意見もあり、経営上重要な要素となりつつあります。書店員にとっては、便意を催した客にトイレの場所を尋ねられることは日常茶飯事だといいます。実際に、書店利用者へのアンケート調査では、「今後書店で利用したいサービス」として、トイレの利用がポイントカードやバーゲンに次ぐ高位にランクインしています。古書店街である神保町ではかつてトイレ不足が深刻な問題でしたが、行政の対策などにより状況は改善されつつあります。

「青木まりこ」本人とメディア

現象名の由来となった青木まりこさんは、実名で投稿を行ったとされています。一度はためらいながらも実名を記載したことに、ユーモアを感じたという編集側のエピソードが残っています。彼女自身は当初この現象に半信半疑でしたが、親友の体験談を聞いてからすぐに自身も症状が出始めたと語っています。彼女は、便意に悩むというよりは、なぜこれが起きるのだろうという純粋な疑問から投稿したようです。現象が有名になった後も、編集関連の仕事に関わったり、ユーモアとしてトイレ関連の企画を依頼されたりといったエピソードがあります。実名での大胆な投稿は親族の間で大きな話題となり、一時的に恋愛に影響したという話もありますが、後に結婚し、偶然にも夫が同姓であったため結婚後も本名が「青木まりこ」のままであるという、ユニークな運命をたどっています。

青木まりこ現象は、文芸作品の中でも言及されることがあります。東川篤哉氏はこれをモチーフにしたミステリー小説を構想したことがあり、薄井ゆうじ氏の偽書『本の虫』には、書店に棲息し便意を誘発させるという架空の生物「マリコムシ」が登場します。

また、日本の大手新聞である朝日新聞のコラム「天声人語」が、2001年に「書店における便意」をテーマに取り上げた際、インターネット上の文章と酷似しているとして週刊新潮に「盗用」疑惑を報じられ、裁判に発展した騒動もありました。裁判では最終的に盗用は認められませんでしたが、インターネット上の情報の影響力が示された出来事として語られています。

国外の状況と人類論的視点

青木まりこ現象という呼称は主に日本国内で使われており、海外での同様の体験談はあまり多く報告されていません。米国のジャーナリストによる書籍に言及が見られる程度で、英語圏での言及はほとんど見つかっていないようです。この現象が日本独特のものなのか、あるいは単に国外ではまだ広く認知されていないだけなのかは不明です。

この現象を人類論的な視点から考察する識者もいます。ある解剖学者は、生命の進化に逆らうような現代人のライフスタイルが、便意といった身体的な反応として現れると指摘しています。また、便意を我慢する姿を「人間の人間たる理性そのもの」と捉えたり、読書と排便という行為に共通する「自己の内面の自覚」を見出したりする哲学的・文学的な考察も行われています。この現象が、環境問題と同等に「人類の特異性による問題」であるという極端な見解も存在します。

このように、青木まりこ現象は単なる生理現象にとどまらず、その原因を巡る様々な議論や、社会、文化、さらには哲学的な側面まで含めた、多角的な関心の対象となっています。

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