香本

謎に包まれた『源氏物語』写本「香本」

『源氏物語』の研究において、現存しない写本「香本」は重要な謎の一つです。鎌倉時代のいくつかの『源氏物語』写本の奥書や注釈書にその存在が示唆されており、研究者たちの関心を集めてきました。この文章では、限られた情報から「香本」の実像に迫り、その特徴や歴史的背景を考察します。

「香本」の名称と特徴

「香本」という名称は、写本の表紙の色に由来すると考えられています。複数の文献で言及されていることから、当時、一定の知名度を持っていた写本だったと推測されます。鎌倉時代の注釈書『仙源抄』では「香本 左京権大夫香表紙本也」と記されており、「香色」の表紙を持つ、左京権大夫所蔵の写本であったことを示唆しています。「香色」とは、黄ばんだうす赤い色を指す言葉です。

『源氏物語』の写本には、青表紙本（定家本）や黄表紙本など、表紙の色で分類されるものもあります。「香本」も同様に、表紙の色で識別されていたと考えられます。

文献における「香本」の言及

「香本」の存在を示す記述は、いくつかの文献に見られます。例えば、鎌倉時代の写本である平瀬本には、校合に用いられた写本の一つとして「香本」が挙げられています。また、『仙源抄』や『光源氏物語抄』（『異本紫明抄』）といった注釈書にも、「香本」の本文に関する注記が多数存在します。これらの注記は、「香本」の本文が、現在知られる他の写本と異なる点、特に巻序や特定の語句について、どのような異同があったのかを明らかにする上で貴重な資料となります。

特に注目すべきは、『光源氏物語抄』における注記です。絵合巻、玉鬘巻、紅梅巻、浮舟巻など、複数の巻で「香本」の本文が引用されており、その内容から「香本」独自の本文の特徴が読み取れます。例えば、紅梅巻の巻序は、一般的な紅梅→竹河ではなく、竹河→紅梅となっていたことが示唆されています。これは、当時、複数の巻序の異本が存在した可能性を示唆する重要な発見です。

大島河内本にも「香本」に関する注記が見られます。例えば、「東屋巻」の「おそき」の項では「オソキオスキ香本古本」と記されており、「香本」と別の写本「古本」で同一の異表記が見られたことを示しています。

「香本」の所持者と巻序

『仙源抄』の「左京権大夫香表紙本也」という記述から、「香本」の所持者として左京権大夫が推測されます。この左京権大夫の人物については、藤原為継やその父である藤原信実といった説があり、現在も議論が続いています。

興味深いのは、「香本」の巻序が、竹河→紅梅という、現在一般的なものとは異なる順序であった可能性が高い点です。この巻序は、『簾中抄』の異本『白造紙』など、平安時代末期の文献にも見られ、八条院という特定の環境下で成立した可能性が示唆されています。このことから、「香本」は、特定の系統の写本に属し、特定の貴族層との関わりがあったと推測されます。

まとめ

「香本」は、現存しないためその全容は不明ですが、現存する複数の文献からの情報から、その特徴や歴史的背景を部分的に明らかにすることができました。今後の研究では、より多くの情報を集め、この謎めいた写本の実像解明に繋げていくことが期待されます。残された断片的な情報から、当時の写本の多様性や、貴族社会における『源氏物語』の受容状況を推測し、更なる研究の必要性を感じさせられます。 『源氏物語』研究において、「香本」は重要な研究課題であり続けると考えられます。

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