アレクサンドル・クプリーン

アレクサンドル・イヴァーノヴィチ・クプリーン（Алекса́ндр Ива́нович Купри́н、1870年 9月7日 - 1938年 8月25日）は、ロシア帝国出身の作家、飛行士、探検家であり、冒険家としての側面も持ち合わせていました。彼の文学作品は、ロシア社会の多様な側面を捉え、人間の心理を深く掘り下げたことで知られています。代表作には、『決闘』(1905年)があり、その他にも『貪欲の神』(1896年)、『野性の誘惑オレーシャ』(1898年)、『ルイブニコフ二等大尉』(1906年)、『エメラルド』(1907年)、『ざくろ石の腕輪』(1911年)などがあります。

生涯

生い立ち

クプリーンは、下級官吏の息子として生まれました。母親はタタールの女公爵の家系でしたが、クプリーンの幼少期に財産をほとんど失っていました。父親はクプリーンが幼い頃にコレラで亡くなり、その後、母親とともに母子保護施設へ移りました。幼少期は、慈善施設で過ごし、規律正しい生活の中で多くの抑圧を感じていた一方、友人の間では話上手で人気者でした。露土戦争の勝利に触発され、軍人への道を志し、モスクワ陸軍幼年学校に入学、その記憶は後の自伝的小説にも反映されています。幼年学校では鞭打ちの記憶がトラウマとして残ったと述懐していますが、文学にも興味を持ち、詩作を始めました。この時期には、外国語の詩を翻訳もしています。

1888年に陸軍幼年学校を卒業後、アレクサンダル士官学校に進学し、1890年に中尉として卒業。ドニエプル第46歩兵連隊に配属され、4年間軍務に就きました。

文学活動の始まり

1889年、詩人リオドール・パールミンとの出会いがきっかけで、デビュー作『最後のデビュー』を発表。これは舞台歌手の自殺事件を基にしたものでした。その後、『プシケ』や『月明かりの夜に』などを発表し、精神の異常や幻想と現実の曖昧さを描いています。兵役中の作品では、人間の精神状態を深く掘り下げ、奇妙な心の状態を収集家のように描いたと自称しました。

1894年に軍を除隊後は、様々な職を経験。歯科医、測量士、役者、サーカス団員、教会の聖歌隊員、医者、狩猟家、漁師など多岐にわたる職業を経験し、これらの経験が後の作品に活かされています。また、独学で文学を学び、グレープ・ウスペンスキーを敬愛しました。ジャーナリストとしても活動し、新聞に寄稿する中で、人間や社会の様々な側面を詳細に観察し、物語に反映させました。

1896年には『キエフの類型』と題する短編集を出版、1897年には短編集『ミニチュア』を発表。サーカスを題材にした『さあ、やれ』は、レフ・トルストイから高い評価を得ました。1896年には最初の重要な作品である『貪欲の神』を発表。急速に発展するロシア資本主義の暗部を描きました。ヴォルィーニでの生活経験は、後の傑作『野性の誘惑オレーシャ』に繋がり、文学的評価を高めました。1901年にはペテルブルクの月刊誌の編集者として迎えられ、首都で活動を始めます。

ペテルブルク時代

ペテルブルクでは、アントン・チェーホフやイヴァン・ブーニンといった文壇の重要人物と親交を深め、彼らと頻繁に手紙をやり取りし、文学的なアドバイスを求めました。また、月刊誌の編集者であったフョードル・バーチュシコフとも親しくなり、互いに多くの手紙を交換しました。マクシム・ゴーリキーもクプリーンのキャリアに大きな影響を与えた人物です。ゴーリキーは、彼の作品に対して誠実かつ丁寧な批評を行い、クプリーンの視野を広げました。

1902年にはマリア・カルロヴナ・ダビドワと結婚。マリアはペテルブルクのリベラル月刊誌の編集者であり、クプリーンは結婚後、妻の雑誌のフィクション部門を率いるようになりました。1903年にはゴーリキーが設立した出版社「ズナーニエ」から作品を出版し、トルストイやチェーホフから高い評価を得ました。しかし、ペテルブルクでの生活は精神的に疲弊を招き、孤独感を抱いていたと手紙に綴っています。

1902年から1905年にかけては、故郷にいた頃に比べると作品数は少ないものの、『サーカスにて』や『湿地』、『ユダヤ女』など、チェーホフやトルストイから評価された作品も発表しています。この時期には、偽善、偏見、有閑階級の堕落などをテーマにした作品も多く見られます。

『決闘』

軍隊生活への不満から着想を得た長編小説『決闘』は、1905年に発表されると文壇に大きな衝撃を与えました。小説は、1900年代初頭としては異例の4万5500部を売り上げ、議論を呼びました。左派からは「専制政治の棺を暴いた」と歓迎され、右派からは「体制への騙し討ち」と非難されました。中には、新聞紙上でクプリーンに決闘を挑む士官もいたほどです。しかし、多くの士官からは感謝の手紙が寄せられ、批評家ニコラス・ルーカーは「クプリーン作品の頂点であり、ロシア文学史における不朽の名声を保証された」と評しました。

1905年-1913年

1905年の事件をきっかけに、クプリーンは体制批判的な姿勢を強めました。セヴァストポリで黒海艦隊の水兵と交流し、戦艦ポチョムキンの反乱にも参加しようとしました。これらの行動から、秘密警察の監視下に置かれることになります。セヴァストポリ事件を目撃したクプリーンは、破壊された巡洋艦から乗組員を救助したと、後の作品で明かしています。黒海艦隊司令官から名誉毀損で訴えられたことで、セヴァストポリを離れることになりました。その後、罰金と自宅軟禁を言い渡されています。1905年以降の作品では、当時のロシア社会を覆っていた暴力や動乱を描いたものが多く見られます。

1905年以降、クプリーンは文学以外の分野でも活動を始めました。気球飛行や潜水、飛行機旅行を体験し、冒険家としての側面も覗かせました。1908年にはズナーニエ派を離れ、自身の作品を独立して出版するようになります。この時期には、『エメラルド』や『スラミスフィ』、『レーノチカ』、『ガーネットブレスレット』などの傑作を発表しています。1909年には、ブーニンとともにプーシキン賞を受賞しました。

『魔窟』

1908年から執筆に取り掛かった長編小説『魔窟』は、売春をテーマにしたもので、発表当時大きな物議を醸しました。第一部が大きな反響を呼んだ一方で、第二部と第三部は一般的に不評でした。この作品は、ドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にし、現実の描写に重点が置かれた点で、評価が分かれました。批評家の中には、売春宿の生活を詳細に描いた第一部を特に高く評価する者もいましたが、自然主義的な描写に批判的な意見もありました。

『魔窟』以降、クプリーンの創作意欲は衰退していき、第一次世界大戦勃発までの期間には、あまり評価の高い作品は発表されていません。1912年にはフランス南部を訪れており、その時の印象を基にした短編集『コート・ダジュール』を刊行しました。

第一次世界大戦と革命

第一次世界大戦が勃発すると、クプリーンは地元で軍病院を開設。戦場を訪れ、負傷者の治療費増額を訴え、自身の文学活動25周年を祝う考えを拒否しました。予備役将校として召集され、歩兵中隊を指揮しましたが、病気のため除隊。戦争をテーマにした作品は少ないものの、社会の不満を風刺的に描いた作品を発表しています。

二月革命を迎え、クプリーンは社会主義革命家の新聞の編集を始め、ツァーリズム崩壊を歓迎する記事を寄稿しました。しかし、新たな混乱を招く過激な行動を懸念し、ロシアが流血騒ぎに陥ることを警告しました。

十月革命では、当初政治的な立場を明確にしませんでしたが、ボリシェヴィキの革命を歴史的な意義を持つものとして捉えていました。レーニンを「正直で勇敢な男」と評価する一方で、戦時共産主義の政策を批判。ボリシェヴィキがロシア文化の存続を危うくしていると主張しました。その批判的な立場から、一時逮捕されたこともあります。

海外移住

1919年、白軍がガッチナを占領すると、クプリーンは白軍の新聞を編集しました。その後、エストニア、フィンランドを経て、1920年にパリに亡命しました。パリでの生活は、創造力の衰えとアルコール依存症に苦しむ日々でした。ロシアを離れたことで孤独を深め、経済的にも困窮しました。クプリーンは、ロシアを失ったことへの嘆きを口にし、執筆の意欲を失っていました。亡命後は、かつて描いたテーマに戻り、失われた故郷を懐かしむ作品を多く書いています。晩年には、闘牛を題材にした物語や、南フランスでの生活を綴ったスケッチを発表しています。

帰国と死

1930年代には、借金と貧困に苦しんでいました。視力の低下や筆跡の悪化も重なり、執筆活動もままならなくなっていました。妻も亡命者向けの貸本屋を経営するなど生活を支えようとしましたが、うまくいきませんでした。ソ連への帰国が現状を打開する唯一の解決策だと考え、1936年に帰国を決意。1937年にモスクワに到着し、作家同盟の歓待を受けました。その後、レニングラードに移り住みましたが、パリでの生活で体は衰弱し、変わり果てた姿に旧友は衝撃を受けました。クプリーンは帰国後、作品の出版は許されたものの、新作を著すことはありませんでした。祖国に戻ったものの、異邦人のような気持ちで日々を過ごし、そのことに幻滅していました。1938年、病状が悪化。腎臓障害や多発性硬化症に加え、食道がんを患い、手術も効果なく、8月25日に亡くなりました。レニングラードのヴォルコヴォ墓地に埋葬されました。

私生活

クプリーンは、1902年にマリア・カルロヴナ・ダビドワと結婚し、娘リディアをもうけました。1907年に離婚し、1908年にエリザヴェータ・モリトソヴナ・ゲインリフと再婚。娘クセーニヤが誕生しています。

レガシー

ニコラス・ルーカーはクプリーンを「ロシア文学史においてユニークかつ重要な位置を占める作家」と評価しています。短編小説のジャンルにおいて、チェーホフ、ゴーリキー、ブーニンと同時代に活躍し、彼らとは異なる独自のスタイルを確立しました。クプリーンの作品は、人間精神に対する深い関心と、豊かな題材、そして今日でも多くの読者を魅了する魅力的な文章が特徴です。彼の作品は、社会の底辺で生きる人々への共感や、人間の複雑な感情を繊細に描いた点で、評価されています。ウラジーミル・ナボコフは、クプリーンを「悲哀な冒険を求める物語はロシアのキップリングであり、しばしば神経症および打たれ弱い」と評しました。20世紀を通して、クプリーンは「ロシア文学において最も広く読まれた古典の一つ」であり、その作品は多くの映画化もされています。1979年には、彼にちなんで小惑星3618 Kuprinが命名されました。

主な著書

最後のデビュー (1889)
「さあ、やれ」 (1897)
貪欲の神 (1896)
野性の誘惑オレーシャ (1898)
サーカスにて (1902)
決闘 (1905)
生活の河 (1906)
ルイブニコフ二等大尉 (1906)
エメラルド (1907)
魔窟 (1909–1915)
ガーネットブレスレット (1911)
液体太陽 (1913)
士官候補生 (1928–1932)
ジャネット (1933)

もう一度検索