イブン・スィーナー

イブン・スィーナー：中世イスラム世界が生んだ天才

イブン・スィーナー（ラテン名：アウィケンナ）は、980年から1037年にかけて生きたペルシャの哲学者、医学者、科学者です。その卓越した知識と業績から「イスラム世界が生んだ最高の知識人」と評価され、「第二のアリストテレス」とも呼ばれています。アリストテレス哲学と新プラトン主義を融合させ、ヨーロッパの医学と哲学に深い影響を与えました。また、アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並び称される巨頭です。彼の生涯は、幸福と苦難が入り混じる波乱万丈なものでした。

生涯

幼少期と教育

イブン・スィーナーは、980年、サーマーン朝の首都ブハラ近郊のアフシャナで生まれました。幼い頃から聡明で、10歳までにクルアーンを暗誦するほどの記憶力を持っていました。父は彼に優秀な教師をつけ、数学、哲学、天文学、論理学などを学ばせました。特に哲学者ナティリからは、ユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び、間もなく師を凌駕するほどの学識を身につけました。また、医学者サフル・アル・マスィーヒーからは自然学、形而上学、医学を学び、16歳で患者を診療するようになったと言われています。

彼は医学について「さして難しい学問ではない」と述べていますが、当時の医学書は家庭医学の指南書のようなものであり、後年、医学の奥深さを知ることになります。アリストテレスの『形而上学』を40回読んでも理解できなかったという逸話は、彼の探究心と謙虚さを示しています。最終的に、ファーラービーの注釈書によってアリストテレス哲学を修得することができました。幼少期は、学びのために全てを費やし、不明な点があれば神に祈りを捧げたと自伝で回想しています。

サーマーン朝の滅亡と放浪の旅

医師としての名声を高めたイブン・スィーナーは、サーマーン朝のアミール（君主）の病を治したことで王室図書館の利用を許可され、そこでギリシャ語の文献を含む多くの書物を読みました。18歳までに全ての学問を修めたと自称するほどの知識を身につけたものの、図書館は火災で焼失し、彼が放火したという噂も流れました。21歳の時に父が亡くなると、宮廷での仕事で生計を立てることが困難となり、ブハラを去って放浪の旅に出ます。ホラズム地方のウルゲンチに滞在中は、法律顧問として活躍する傍ら、『医学典範』の執筆を開始しました。

また、同地の学者ビールーニーと宇宙論と物理学についての討論を交わしました。その後、ガズナ朝のマフムードの出仕要請を拒否し、密かにウルゲンチを脱出。各地を放浪した後、カスピ海近くのジュルジャーンに居を定め、論理学と天文学を教えながら、『医学典範』の第一部を執筆しました。その後、レイを経てハマダーンに移り、君主シャムス・ウッダウラの侍医となり、彼の疝痛を治療したことで宰相に抜擢されました。多忙な日々の中で研究と講義を続け、アリストテレスの著書の注釈も行いました。

ブワイフ朝への仕官と晩年

シャムス・ウッダウラの死後、宰相を辞任したイブン・スィーナーは、『治癒の書』の完成を目指しますが、新たな君主によって投獄されます。しかし、獄中でも執筆活動を続け、釈放後にイスファハーンに移住しました。イスファハーンでは、君主アラー・ウッダウラの宰相に任じられ、政務を行う傍ら、遠征にも随行し、『治癒の書』の植物学と動物学の章を完成させました。しかし、1030年にイスファハーンがガズナ朝の攻撃を受け、多くの財産と蔵書を失いました。晩年は病に苦しみ、1037年にハマダーンで亡くなりました。死の直前には、財産を貧者に施し、奴隷を解放し、クルアーンを朗読していたと言われています。

思想

哲学

イブン・スィーナーはアリストテレスを哲学の師と仰ぎ、アリストテレス哲学をイスラム世界に紹介し、体系化しました。彼は形而上学を頂点とする学問体系を構築し、代数学を数学の一部に、工学と計量学と機械学を幾何学に含めました。特に「存在」の問題に深く関心を寄せ、独自の存在論を展開しました。外界を認識できない状態でも自我の存在を把握できるという「空中人間」の例えを用いて、存在は経験ではなく直観によって把握できると主張しました。

存在を「不可能なもの」「可能なもの」「必然的なもの」に三分し、全ての存在の原因を「第一原因」である神に帰着させました。また、新プラトン主義の流出説を用いて神の超越性を確保し、汎神論とは異なる立場を取りました。その思想は、後世のイスラム世界だけでなく、キリスト教世界のスコラ学にも大きな影響を与えました。

医学

イブン・スィーナーは医学を自然学から派生した学問と捉え、病気の原因を究明し、治療法を決定する必要があると述べています。彼は医術の実践よりも理論面を得意とし、臨床医学の知識をまとめた『医学典範』を執筆しました。ガレノスの理論を継承しつつ、新たな薬草やアルコールを使った腐敗防止法、脳腫瘍と胃潰瘍の発見など、独自の発見も行いました。

また、四大元素説を医学に応用するなど、哲学の知識も活用しましたが、哲学と医学の役割を明確に区別していました。音楽理論にも精通し、音楽が健康の保持に効果的であると考えていました。さらに、心理学の開拓者の一人としても数えられ、精神療法についても言及しています。

自然科学

イブン・スィーナーは、観察と実験による探究を重視しました。ユークリッドの『原論』の解釈を行い、数の概念を正の実数にまで広げました。天体観測にも関心を持ち、独自の観測器具を考案しています。地球が球体であることを論証し、造山運動についても言及するなど、地質学的な知見も示しました。

錬金術には否定的な立場を取り、金属はそれぞれ独立した種であり、種類を変えることは不可能だと主張しました。一方で、夢判断を肯定し、奇蹟や超自然現象にも関心を示すなど、神秘主義的な側面も持ち合わせていました。

著作

イブン・スィーナーは、医学、哲学、自然科学、文学など、多岐にわたる分野で100を超える著作を残しました。代表的なものに、医学書『医学典範』、哲学書『治癒の書』があります。他にも、『指示と警告』、『救いの書』などがあり、文学作品や詩文も残しています。

『医学典範』

医学者としてのイブン・スィーナーの業績を代表するのが『医学典範』です。全5巻からなり、医学の概念、病気の原因と兆候、健康の保持法、治療法、単純薬物の性質、病気の種類、合成薬物など、医学に関する幅広い知識が網羅されています。ギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳された『カノン』は、中世ヨーロッパの医学界で長く教科書として用いられました。

『治癒の書』

哲学者としての彼の主著は『治癒の書』です。論理学、自然学、数学、形而上学の4つの主要部分からなり、百科事典的な内容となっています。アリストテレスの思想をヨーロッパに紹介する上で重要な役割を果たしましたが、難解な内容と粗悪な翻訳のため、その影響は限定的でした。

死後

イブン・スィーナーの死後、彼の業績は広く認められるようになり、1952年には生誕1,000年を記念する祭典が世界各地で開催されました。彼の名前を冠した施設や組織も存在し、現在でもその思想と業績は研究され続けています。タジキスタンの紙幣には彼の肖像が使用されています。

まとめ

イブン・スィーナーは、中世イスラム世界を代表する天才であり、その多岐にわたる業績は、医学、哲学、自然科学など、様々な分野に影響を与えました。彼の思想と業績は、現代においても深く研究されています。

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