エジプトへの逃避途上の休息 (ティツィアーノ)
『エジプトへの逃避途上の休息』（伊: Il Riposo durante la fuga in Egitto, 英: Rest on the Flight into Egypt）は、盛期ルネサンスのヴェネツィア派巨匠、ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1510年頃に制作した油彩の宗教画です。
この作品は、『新約聖書』の「マタイによる福音書」に記された、ヘロデ大王による幼児虐殺を避けるため、聖家族がエジプトへ逃れる場面を描いています。東方の三博士が幼子イエスを礼拝した後、ヨセフの夢に主の使いが現れ、ヘロデ王の虐殺から逃れるよう告げます。ヨセフは夜にイエスとマリアを連れてエジプトへ逃れ、ヘロデ王の死までその地に留まりました。その後、再び夢に使いが現れ、イスラエルへの帰還を告げ、彼らはナザレに移り住みました。
ティツィアーノは、旅の途中で休息する聖家族の姿を描いています。中央に描かれたマリアは、幼子イエスを抱きかかえ、足元をしっかりと踏みしめています。その姿は、過酷な旅路を物語っているかのようです。一方、ヨセフは、岩場に座り込み、疲労困憊した様子が、背を丸めた姿勢や老いた顔から伝わってきます。ティツィアーノは、聖母と幼子イエスの母子の親密で優しい瞬間を捉えています。マリアが広げた青いマントの上で、幼子イエスは母親に寄りかかり、髪を引っ張っています。白い産着は、つい先程まで幼子イエスがそこに座っていたことを示唆しています。
聖家族は、画面左側に配置され、明るい空を背景に浮かび上がっています。人物像は、作品のサイズに対して記念碑的な印象を与えます。特に、マリアのしっかりとした姿は、ティツィアーノの他のヒロイン像を彷彿とさせます。また、背景の緑豊かな風景は、エジプトというよりは、ティツィアーノの故郷周辺の風景を思わせます。
聖ヨセフと聖母は物思いにふけり、かすかな不吉な予感を漂わせています。幼子イエスを包む白い産着は、キリストの遺体を包む聖骸布を暗示しており、ティツィアーノは、若くして感情と人間性を理解し、それをキリストの生涯と結びつけて表現する術を心得ていました。この点において、風景に人物の感情を反映させる「Mood landscape」の創始者であるジョルジョーネの影響が指摘されています。中景の大きな樹木は、聖家族に休息の場を提供すると同時に、ヨセフの姿勢を反映しています。
色彩も重要な要素です。聖母のドレスの濃い赤は、産着の白によって引き立てられ、マントのウルトラマリンブルーは、ヨセフのマントの琥珀色によって和らげられています。色彩のドラマは、人物たちの動きを強調しています。作品の帰属については、美術評論家や歴史家の間で議論がありましたが、現在ではティツィアーノの作品であるという見解で一致しています。
この作品に関する最も古い記録は、17世紀初頭のヴェネツィアの商人、バルトロメオ・デッラ・ナーヴェのコレクションです。ナーヴェのコレクションは、当時「ヴェネチアのすべての巨匠」によって見物されました。このコレクションには、ティツィアーノの作品を少なくとも15点含む、ルネサンス期のヴェネチア派の画家たちの作品が含まれていました。
デッラ・ナーヴェの死後、コレクションの多くは初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンによって購入されました。ハミルトン公爵の死後、コレクションはオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルムによって購入されました。レオポルト大公は、当時最も優れた美術コレクションを収集し、ブリュッセルのクーデンベルク宮殿に展示しました。その後、コレクションはウィーンに移され、ベルヴェデーレ宮殿に収蔵されました。
1809年、ナポレオンがウィーンを占領した際、この作品は他の絵画とともに略奪され、パリの聖エリザベト教会に保管されました。ナポレオンの敗北後、1815年にウィーンに返還されました。その後、この絵画は、風景画家ターナーの後援者であったヒュー・アンドリュー・ジョンストーン・マンローによって所有され、1878年にクリスティーズで第4代バース侯爵ジョン・アレクサンダー・シンによって購入されました。
以来、この絵画はウィルトシャー州のロングリート・ハウスに飾られ、1949年に一般公開されたことで、多くの訪問客が鑑賞できるようになりました。
1995年、770万ドルの価値があると見られていたこの絵画は、ロングリート・ハウスから盗まれました。犯人は、広大な敷地を車で横断し、1階の窓から侵入したと考えられています。盗難後、保険会社は絵画の返還に対して報奨金を提示し、有力な情報提供に懸賞金をかけました。そして7年後の2002年、元スコットランドヤードの捜査官チャールズ・ヒルによって、ロンドンのバス停に放置されていた袋の中から発見・回収されました。回収された絵画は、額縁を失っていたものの、本体に目立った損傷はありませんでした。
2024年、この絵画はクリスティーズで競売にかけられました。オークションでは、1,500万ポンドから2,500万ポンドの落札価格が予想され、ティツィアーノの過去最高落札額を更新すると考えられていました。そして、7月2日に行われた競売で、1,756万ポンド（約2,230万ドル）で落札され、実際に過去の記録を塗り替えました。
レオポルト大公は、芸術家ダフィット・テニールスに自身のコレクションを記念する絵画を制作させました。その中の1枚『ブリュッセルの画廊における大公レオポルト・ヴィルヘルム』に、『エジプトへの逃避途上の休息』が描かれています。さらに、テニールスは『テアトルム・ピクトリウム』のために、この作品の版画と油彩による複製を制作しました。
主題
この作品は、『新約聖書』の「マタイによる福音書」に記された、ヘロデ大王による幼児虐殺を避けるため、聖家族がエジプトへ逃れる場面を描いています。東方の三博士が幼子イエスを礼拝した後、ヨセフの夢に主の使いが現れ、ヘロデ王の虐殺から逃れるよう告げます。ヨセフは夜にイエスとマリアを連れてエジプトへ逃れ、ヘロデ王の死までその地に留まりました。その後、再び夢に使いが現れ、イスラエルへの帰還を告げ、彼らはナザレに移り住みました。
作品
ティツィアーノは、旅の途中で休息する聖家族の姿を描いています。中央に描かれたマリアは、幼子イエスを抱きかかえ、足元をしっかりと踏みしめています。その姿は、過酷な旅路を物語っているかのようです。一方、ヨセフは、岩場に座り込み、疲労困憊した様子が、背を丸めた姿勢や老いた顔から伝わってきます。ティツィアーノは、聖母と幼子イエスの母子の親密で優しい瞬間を捉えています。マリアが広げた青いマントの上で、幼子イエスは母親に寄りかかり、髪を引っ張っています。白い産着は、つい先程まで幼子イエスがそこに座っていたことを示唆しています。
聖家族は、画面左側に配置され、明るい空を背景に浮かび上がっています。人物像は、作品のサイズに対して記念碑的な印象を与えます。特に、マリアのしっかりとした姿は、ティツィアーノの他のヒロイン像を彷彿とさせます。また、背景の緑豊かな風景は、エジプトというよりは、ティツィアーノの故郷周辺の風景を思わせます。
聖ヨセフと聖母は物思いにふけり、かすかな不吉な予感を漂わせています。幼子イエスを包む白い産着は、キリストの遺体を包む聖骸布を暗示しており、ティツィアーノは、若くして感情と人間性を理解し、それをキリストの生涯と結びつけて表現する術を心得ていました。この点において、風景に人物の感情を反映させる「Mood landscape」の創始者であるジョルジョーネの影響が指摘されています。中景の大きな樹木は、聖家族に休息の場を提供すると同時に、ヨセフの姿勢を反映しています。
色彩も重要な要素です。聖母のドレスの濃い赤は、産着の白によって引き立てられ、マントのウルトラマリンブルーは、ヨセフのマントの琥珀色によって和らげられています。色彩のドラマは、人物たちの動きを強調しています。作品の帰属については、美術評論家や歴史家の間で議論がありましたが、現在ではティツィアーノの作品であるという見解で一致しています。
来歴
この作品に関する最も古い記録は、17世紀初頭のヴェネツィアの商人、バルトロメオ・デッラ・ナーヴェのコレクションです。ナーヴェのコレクションは、当時「ヴェネチアのすべての巨匠」によって見物されました。このコレクションには、ティツィアーノの作品を少なくとも15点含む、ルネサンス期のヴェネチア派の画家たちの作品が含まれていました。
デッラ・ナーヴェの死後、コレクションの多くは初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトンによって購入されました。ハミルトン公爵の死後、コレクションはオーストリア大公レオポルト・ヴィルヘルムによって購入されました。レオポルト大公は、当時最も優れた美術コレクションを収集し、ブリュッセルのクーデンベルク宮殿に展示しました。その後、コレクションはウィーンに移され、ベルヴェデーレ宮殿に収蔵されました。
1809年、ナポレオンがウィーンを占領した際、この作品は他の絵画とともに略奪され、パリの聖エリザベト教会に保管されました。ナポレオンの敗北後、1815年にウィーンに返還されました。その後、この絵画は、風景画家ターナーの後援者であったヒュー・アンドリュー・ジョンストーン・マンローによって所有され、1878年にクリスティーズで第4代バース侯爵ジョン・アレクサンダー・シンによって購入されました。
以来、この絵画はウィルトシャー州のロングリート・ハウスに飾られ、1949年に一般公開されたことで、多くの訪問客が鑑賞できるようになりました。
盗難事件
1995年、770万ドルの価値があると見られていたこの絵画は、ロングリート・ハウスから盗まれました。犯人は、広大な敷地を車で横断し、1階の窓から侵入したと考えられています。盗難後、保険会社は絵画の返還に対して報奨金を提示し、有力な情報提供に懸賞金をかけました。そして7年後の2002年、元スコットランドヤードの捜査官チャールズ・ヒルによって、ロンドンのバス停に放置されていた袋の中から発見・回収されました。回収された絵画は、額縁を失っていたものの、本体に目立った損傷はありませんでした。
オークション
2024年、この絵画はクリスティーズで競売にかけられました。オークションでは、1,500万ポンドから2,500万ポンドの落札価格が予想され、ティツィアーノの過去最高落札額を更新すると考えられていました。そして、7月2日に行われた競売で、1,756万ポンド（約2,230万ドル）で落札され、実際に過去の記録を塗り替えました。
複製
レオポルト大公は、芸術家ダフィット・テニールスに自身のコレクションを記念する絵画を制作させました。その中の1枚『ブリュッセルの画廊における大公レオポルト・ヴィルヘルム』に、『エジプトへの逃避途上の休息』が描かれています。さらに、テニールスは『テアトルム・ピクトリウム』のために、この作品の版画と油彩による複製を制作しました。
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