エジプトへの逃避途上の風景

ピーテル・ブリューゲル作『エジプトへの逃避途上の風景』は、1562年に油彩で描かれた初期フランドル派の絵画です。聖書、マタイによる福音書に記された聖家族のエジプト逃避を描いた作品ですが、その主題よりも、むしろ風景描写に重点が置かれた、ブリューゲルの初期を代表する風景画と言えるでしょう。

この絵画は、もともとフランスの枢機卿アントワーヌ・ド・グランヴェルによって委嘱されたとされています。その後、ピーテル・パウル・ルーベンスが所有した時期もあり、1978年にはロンドンのコートールド美術館に収蔵されました。画面下部にはかすかに「BRVEGEL MDLXIII」という署名が見られます。

『エジプトへの逃避途上の風景』の主題は、聖ヨセフが夢でヘロデ王による幼児虐殺の企みを知り、幼子イエスと聖母マリアを連れてエジプトへ逃れるという物語です。このテーマは、16世紀ネーデルラントの風景画家、特にヨアヒム・パティニールによって繰り返し描かれてきました。アントウェルペン王立美術館にあるパティニールの『エジプトへの逃避途上の風景』はその代表例です。

ブリューゲルの作品はパティニールの影響を色濃く受けています。パティニールは「世界風景」と呼ばれる、様々な地域の景観を合成した独特の風景画を描き、その影響はブリューゲルの作品にも見られます。しかし、両者の作品を比較すると、違いも明らかです。パティニールの作品は、岩山が不自然で、書き割り的な印象を与え、幼児虐殺の場面が挿入されていることで画面全体の統一感が損なわれているのに対し、ブリューゲルはアルプス山脈を実見した経験を背景に、よりリアルで自然な風景描写を展開しています。

ブリューゲルの作品における風景描写の精緻さは特筆すべき点です。峻険な岩山の構造、その地肌の変化、大河に面した町の細密な描写、そして空気感まで感じさせる水や空の表現は、自然で写実的な描写です。また、木の幹にある祠の偶像が聖家族の背後で倒れる描写は、イエスの誕生による異教的世界の終焉を象徴的に示しており、画面全体の情景に自然に溶け込んでいます。

色彩についても、パティニールの影響を受けつつ、独自の表現を見せます。前景の茶褐色、中景の緑色、遠景の青色の展開や、光る水面の描写はパティニールに通じるものがあります。しかし、ブリューゲルの色彩はパティニールのような図式的なものではなく、褐色、緑、青といった自然な色合いが、明度と彩度の微妙な変化によって画面全体に広がっています。その中で、ロバに乗る聖母マリアの赤い衣が、鮮やかなアクセントとして際立っています。

このように、『エジプトへの逃避途上の風景』は、聖書の物語を主題としながらも、ブリューゲルの卓越した風景描写と色彩感覚によって、宗教画を超えた、芸術作品として高い評価を得ている作品と言えるでしょう。 その写実性と自然な表現は、後世の画家にも大きな影響を与え、初期フランドル派における風景画の重要な発展を示す作品として、美術史に名を刻んでいます。ブリューゲルの他の作品と比較検討することで、彼の画業における進化と独自性をより深く理解することができるでしょう。

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