ガリラヤ湖のキリスト

『ガリラヤ湖のキリスト』について

『ガリラヤ湖のキリスト』（伊: Cristo sul mare di Galilea, 英: Christ at the Sea of Galilee）は、16世紀後半に制作された油彩画です。一般的にルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティントレット、あるいは彼の工房の画家による作品とされてきましたが、近年ではフランドル出身の画家ランベルト・スストリスの作品である可能性も指摘されています。この絵画は、『新約聖書』「ヨハネによる福音書」21章に記述されている、復活したイエス・キリストが3度目に弟子たちの前に姿を現した場面を描いています。

主題

絵画の主題は、聖ペテロが聖トマス、ナタナエル、ゼベダイの子聖ヤコブと聖ヨハネ、そして他の2人の弟子たちと共にガリラヤ湖で漁をしていた時の出来事です。彼らは一晩中漁をしましたが、何も獲れませんでした。夜明け頃、湖畔に立つ人物が彼らに「舟の右側に網を投げてみなさい」と声をかけました。その言葉に従うと、網には大量の魚がかかり、引き上げられないほどでした。この出来事に驚いた聖ヨハネは、その人物がイエス・キリストであると悟り、聖ペテロに伝えました。ペテロはそれを聞くと、服を身につけ、湖に飛び込んでキリストのもとへ泳ぎました。他の弟子たちは、舟に乗ったまま網を引き上げ、岸に戻りました。岸辺では火が焚かれており、魚とパンが用意されていました。引き上げられた魚は153匹にも及びましたが、網は破れていませんでした。この時、弟子たちは、その人物がキリストであることを確信しました。

作品の特徴

この絵画では、復活したキリストがガリラヤ湖畔で夜明けの光に照らされながら、湖に向かって立っています。ヴェネツィア派の絵画では珍しく、海景が描かれており、波立つ水面と渦巻く雲が印象的です。キリストの視線と右手の指先は、帆を張った小舟で漁をする7人の弟子たちに向けられています。弟子たちはそれぞれ異なる動作をしており、網を引く者、帆を操る者、遠くを見つめる者、櫂を漕ぐ者など、様々な姿が描かれています。その中で、聖ペテロだけが舟から足を出し、キリストのもとへ泳いで行こうとしています。しかし、その姿はまるで水面を歩いているかのようにも見えます。聖ペテロともう一人の弟子には、白い光輪が見えます。

この作品は、しばしば「マタイによる福音書」14章に記されている「嵐の中で水の上を歩くキリスト」の場面を描いたものと誤解されることがあります。しかし、絵画の詳細から、「ヨハネによる福音書」21章を主題としていることが明らかです。キリストが湖畔に立っているのか、水面に立っているのかは明確ではありませんが、足元にある岩や植物から、湖畔に立っていると考えられます。また、弟子たちの数が7人であること、網を舟の右側から投げていること、そして背景の風景から、この出来事が夜明け前に起きたことを示唆しています。

絵画の質の高さは、美術史家からも高く評価されています。引き伸ばされたキリスト像、不気味な色彩、鮮烈な青色は、エル・グレコを連想させます。また、風景の活気と、未完成な部分があるキリストの描写の乖離は、神秘的で幻覚的な効果をもたらしています。激しく波打つ水面、遠くの湖岸で戯れる雲と光の表現は、19世紀フランスのロマン主義絵画を彷彿させるとも言われています。

制作年代と帰属

制作年代については、美術史家の間で意見が分かれています。1546年から1555年頃とする説や、1558年から1562年頃、あるいは1570年代後半とする説があります。一方で、ティントレットの晩年である1591年から1594年頃とする説も存在します。ほとんどの研究者は、この作品をティントレットの自筆画であり、彼の傑作の一つと考えていますが、その表現や技法は、ティントレットの通常の作品とは異なる点も指摘されています。しかし、キリストのポーズと配置は、かつてキンベル美術館に所蔵されていたティントレットの『ラザロの復活』と共通しています。

1948年には、美術史家ハンス・ティーツェ夫妻が、この絵画をエル・グレコの作品であると主張しました。彼らは、本作品の着想、人物像のタイプ、技法、色彩がティントレットの作品とは異質であると指摘しました。また、ティントレットが常に伝えている人物の姿や人体の構造の感覚が、この作品には欠如しているとも述べています。さらに、ティントレットが水自体を独立した表現手段として用いたことはなく、単に人物を取り巻く環境の一部としてしか描いていないのに対し、この作品では海が中心的な主題となっている点も指摘しました。しかし、エル・グレコへの帰属は、厚塗りの欠如など、エル・グレコの技法とも矛盾している点があります。

最近では、ロバート・エコールズが、この作品の特異な才能は、北方出身の画家ランベルト・スストリスのヴェネツィアにおける後期活動で説明できると主張しています。ランベルト・スストリスは、ティツィアーノやティントレットの工房で風景画を描いており、本作品と彼の図像との間には、共通点が見られます。例えば、ウィーンのアルベルティーナにある素描『プリアポスへの供儀』には、キリストと全く同じポーズをとった裸婦が描かれています。また、小舟に乗った人物像や、海岸の風景もランベルト・スストリスの作品と類似性が見られます。さらに、「ヨハネによる福音書」21章を主題とすることは、イタリア絵画よりも北方で頻繁に見られ、パノラマ風景の構図も北方に特徴的です。ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』の第2版が出版された1568年頃には、ランベルト・スストリスはヴェネツィアを離れていたとされていますが、アーサー・ペルツァーは彼が30年以上ヴェネツィアで活動していた可能性を指摘しています。これらのことから、ティントレットの工房には、比較的独立した画家仲間がおり、ランベルト・スストリスもその一人であったと考えられています。

来歴

この絵画は、もともとジョゼフ・ガロッティ伯爵が所有していましたが、その後ニューヨークの美術商ダーラッシャー・ブラザーズに売却され、1925年までには投資銀行家アーサー・サックスの手に渡りました。1943年3月、アーサー・サックスはジャック・セリグマン＆カンパニーとモーゼス＆シンガーを通じてサミュエル・H・クレス財団に売却し、1952年にナショナル・ギャラリー・オブ・アートに寄贈されました。

まとめ

『ガリラヤ湖のキリスト』は、その主題、構図、技法において、多くの議論を呼んできた作品です。ティントレットの傑作とする説から、エル・グレコやランベルト・スストリスの作品とする説まで、様々な見解が存在します。しかし、この作品が持つ独特の魅力と芸術的価値は、今日においても多くの人々を惹きつけてやみません。

参考文献

黒江光彦監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂（1994年）
ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』高階秀爾監修、河出書房新社（1988年）

外部リンク

* ナショナル・ギャラリー・オブ・アート公式サイト, ティントレット『ガリラヤ湖のキリスト』, 1570年代頃

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