ジャコウアゲハ

ジャコウアゲハとは

ジャコウアゲハは、学名をAtrophaneura alcinous（またはByasa alcinous）という、チョウ目に属するアゲハチョウ科の一種です。その和名は、成熟した雄が放つ、まるで麝香のような独特の香りに由来しており、この香りの主な成分はフェニルアセトアルデヒドであることが知られています。

特徴

形態

成虫の翅を広げた大きさは約10センチメートルほどになり、前翅の長さは45～65ミリメートルです。他のアゲハチョウと比較すると、後翅が斜め後方へ細長く伸びる特徴的な形をしています。成虫は雌雄で見た目が大きく異なり、区別が容易です。雄の翅はビロードのような深い光沢を帯びた黒色であるのに対し、雌は明るい褐色をしています。後翅には黄色がかった紋が現れることが多いですが、稀にこの紋が完全に消失して全身が真っ黒に見える個体（黒化異常型）も確認されています。

幼虫は、ナミアゲハなど他の一般的なアゲハチョウとは大きく異なります。終齢幼虫になっても黒っぽい体色をしており、全身がイボ状の突起で覆われた独特の姿をしています。驚かせると頭部から臭角を出す点は他のアゲハ類と共通していますが、ジャコウアゲハの場合は臭角を少ししか出さないという違いが見られます。

生態

成虫は主に春から夏にかけて姿を現し、その間に年間3～4世代を繰り返します。一日の活動時間は日中で、およそ午前8時から午後5時頃まで活発に活動すると考えられています。冬の間は蛹の状態で越冬し、この時期の蛹は数ヶ月間羽化しない休眠状態に入ります。暖かい季節の蛹は1～2週間ほどで羽化しますが、中には予測不能に長期的な休眠に入る個体も存在します。

幼虫は食草としてウマノスズクサ類を選んで食べます。幼虫は食欲旺盛で、食草が不足すると共食いをすることもあります。成虫は川原や荒地といった開けた明るい場所や、食草が生育する環境の上をゆったりと飛翔します。特に河川の周辺でよく見られるのは、その地域に草本性のウマノスズクサが多く生えているためです。畑の生垣付近など、ウマノスズクサが生育する場所であれば見られますし、木本性のオオバウマノスズクサを食草とする地域では、オオバウマノスズクサが生える山林の林縁部や渓谷などでも観察できます。

生存戦略：ベーツ擬態

ジャコウアゲハの幼虫が食べるウマノスズクサ類には、アリストロキア酸という毒性の物質が含まれています。ジャコウアゲハは幼虫時代にこの葉を食べることで、体内に毒を蓄積します。この毒は成虫になっても体内に残り続けるため、ジャコウアゲハを捕食した鳥などの敵は中毒を起こし、多くの場合食べたものを吐き出してしまいます。一度ジャコウアゲハを食べてひどい経験をした捕食者は、その姿を覚えて二度と襲わなくなります。

このようなジャコウアゲハの毒性と体色を「手本」として、毒を持たない別の種類の昆虫がジャコウアゲハによく似た姿や模様になることで、捕食者から身を守る戦略を「ベーツ擬態」と呼びます。日本国内で見られる例としては、

クロアゲハ
オナガアゲハ
アゲハモドキ

などが、ジャコウアゲハに擬態していると考えられています。

分布

ジャコウアゲハは東アジア一帯に広く分布しており、具体的には日本、台湾、中国東部、朝鮮半島、そしてロシアの沿海地方などで見られます。日本国内では秋田県以南から南西諸島の八重山諸島まで生息しており、特に南西諸島では多くの亜種に分化しています。局地的に生息していることが多いですが、食草の状況などによって突然姿を現すこともあり、食草が減少した際にはかなりの長距離を移動することがあると推測されています。

人間との関わり

ジャコウアゲハの蛹は、特徴的な姿から「お菊虫」という別名で呼ばれることがあります。これは、日本各地に伝わる有名な怪談『皿屋敷』のお菊伝説に由来しています。江戸時代の寛政7年（1795年）、現在の兵庫県姫路市にあたる姫路城下で、後ろ手に縛られた女性のような姿をしたジャコウアゲハの蛹が大量に発生しました。これを見た城下の人々は、「昔、姫路城で非業の死を遂げたお菊の幽霊が、虫の姿を借りてこの世に帰ってきた」と噂したといわれています。この言い伝えにちなみ、兵庫県姫路市ではジャコウアゲハを市の蝶に指定しています。第二次世界大戦前には、姫路城の天守や関連するお菊神社でこの「お菊虫」が売られていたという記録もあり、志賀直哉の長編小説『暗夜行路』にも主人公がお菊虫を購入する場面が描かれています。2010年代半ばからは、姫路市内を中心にジャコウアゲハの繁殖を支援する活動が活発に行われるようになりました。姫路科学館や手柄山など、ジャコウアゲハの食草であるウマノスズクサ類が多数植えられた拠点周辺では、多くのジャコウアゲハを目撃することができます。また、姫路市自然観察の森では、ネイチャーセンターや園内でジャコウアゲハを飼育展示しており、年間を通じて成虫、幼虫、蛹のすべてのステージを観察することが可能です。

近縁種

ジャコウアゲハの仲間や、ウマノスズクサを食草とするアゲハチョウの仲間には、以下のような種がいます。

ベニモンアゲハ (Pachliopta aristolochiae): 東南アジアに分布し、日本では南西諸島の一部に生息します。後翅に鮮やかなピンクの紋が並ぶのが特徴です。
アオジャコウアゲハ類 (Battus属): 主に中央アメリカから南アメリカにかけて分布するグループです。
トリバネアゲハ類 (Ornithoptera属など): インドネシアやニューギニアなどに生息する、世界中のチョウ愛好家を魅了する大型で美しいアゲハチョウです。

これらの種もまた、ジャコウアゲハと同様にウマノスズクサ類を食草とし、体内に毒を蓄える性質を持つものが多いです。

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