タイセイヨウセミクジラ

タイセイヨウセミクジラ（学名：Eubalaena glacialis）は、哺乳綱偶蹄目セミクジラ科に分類される大型のヒゲクジラです。かつては北大西洋に広く分布していましたが、度重なる捕獲により個体数を激減させました。1930年代以降は国際的な保護対象となっていますが、現在もなお様々な脅威に直面しており、その生息数は危機的な状況にあります。

分類

本種はセミクジラ科のセミクジラ属に属し、同じ属に分類されるセミクジラ（北太平洋に生息）やミナミセミクジラ（南半球に生息）と近縁です。特にミナミセミクジラとの遺伝的な近縁性が強いことが知られています。また、同じセミクジラ科のホッキョククジラとも比較的近い関係にあります。

形態

体長は13メートルから18.5メートル、体重は最大で90トンを超える巨体を誇ります。しかし、近年の研究では、人間活動による悪影響から健康状態が悪化し、体が小型化する傾向や繁殖率の低下が報告されています。ずんぐりとした体つきで、特に頭部が大きく、体長の約4分の1を占めます。他の多くのクジラとは異なり、背びれや腹部の畝（溝）はありません。口は大きく湾曲し、アーチ型を描いています。ヒゲクジラの仲間として、噴気孔は二つあります。

幼い頃はやや青みがかった体色をしていますが、成長とともに全身が黒っぽくなります。あごや腹部には不規則な白い斑紋が見られることがあります。最も特徴的なのは、頭部の周囲に見られる「カラシティ」と呼ばれる硬い皮膚のコブです。このカラシティの形状や配置は個体ごとに全く異なるため、写真などを用いた個体識別の重要な手がかりとなっています。

生態

主にカイアシ類やオキアミといった小型の動物プランクトンを、長く発達したクジラヒゲで海水から濾し取って食べます（濾過摂食）。その長いヒゲの構造から、ナガスクジラ科のように魚を積極的に捕食することは少ないと考えられています。

通常は単独で行動するか、2〜3頭程度の小さな群れで生活します。泳ぎは比較的ゆっくりです。海面での活発な行動をよく行うことで知られており、体全体を海面から躍り上がらせるブリーチング、頭部を叩きつけるヘッドスラップ、水面に垂直に頭を出すスパイホップ、尾びれや胸びれで水面を叩くテイルスラップやペックスラップなどが見られます。潮を吹く際は、噴気がV字型になるのが特徴です。

繁殖に関しては、妊娠期間は約12〜14ヶ月で、冬に出産が行われます。全体的に好奇心が強く穏やかな性質を持つとされ、「地球上で最も優しい生物」や、歴史的な捕鯨の対象として「人間によって初めて定期的に捕らえられるようになった海の最も尊敬される生き物」と評されることもあります。北太平洋のセミクジラとは異なり、本種やミナミセミクジラの「歌」は記録されていません。

他の鯨類や魚類とも共存しており、ザトウクジラやナガスクジラなどと交流する様子や、ホッキョククジラ、イワシクジラと餌場を共有する姿が観察されています。稀に、ホッキョククジラがタイセイヨウセミクジラの繁殖行動に参加する場面も報告されています。セミクジラ属は比較的長寿なクジラですが、人間活動の影響により、現代における本種の平均寿命は約22歳と短く、47歳以上まで生きる個体は全体のわずか1割程度にすぎません。また、糞は海洋生態系にとって重要な役割を果たし、気候変動対策にも貢献する可能性が示唆されています。

分布

他のセミクジラ属と同様に、海岸線に近く、水深の浅い場所に頻繁に姿を現します。ケープコッド運河や港湾内といった、人間の生活圏にごく近い閉鎖的な水域に入り込むことも少なくありません。このため、「都市で暮らすクジラ」とも呼ばれることがあり、保護上の大きな課題となっています。本種が運河を通過する際には、安全確保のため一時的に運河が閉鎖される措置がとられることもあります。

過去には北大西洋のほぼ全域に分布していましたが、乱獲により現在の通常生息域は北米大陸沿岸部（セントローレンス湾からフロリダ半島にかけての沖合）に限定されています。北大西洋の東側、特にヨーロッパや北アフリカ沿岸の個体群は、既に絶滅したか、ごく少数の個体が細々と生き残っている「機能的絶滅」の状態にあると考えられています。近年の東側での目撃例は非常に稀であり、そのほとんどが北米由来の個体であることが判明しています。

北米では、マサチューセッツ、ジョージア、サウスカロライナ各州の象徴種に指定されています。メイン州からマサチューセッツ州にかけての北部海域と、ノースカロライナ州からフロリダ州にかけての南部海域は特別保護海域に指定されており、漁具への混獲や船舶との衝突を防ぐため、航路や航行速度の制限など様々な規制が実施されています。しかし、地球温暖化の影響で主要な餌場だったファンディ湾やケープコッド湾から北方のセントローレンス湾へと移動する個体が増加しており、この海域は保護のための法整備が十分でないため、死亡事故が多発し、個体数回復の大きな妨げとなっています。ホエールウォッチングの対象ともなりますが、数が少ないため遭遇できる確率は高くありません。

ヨーロッパ側では、歴史的に深い関わりを持つイベリア半島でも1990年代以降確実な目撃記録が途絶えています。フランスでは2019年に捕鯨時代以来、アイルランドでは2024年に114年ぶりに確認されるなど、ごく稀に目撃される程度です。地中海では17世紀以降記録が限られていましたが、2024年4月にスペイン沿岸で本種が撮影され、地中海への帰還が確認されたことは特筆すべき出来事です。過去に繁殖地として確認されているのはビスケー湾と西サハラのシントラ湾のみですが、地中海もかつては越冬・子育ての場だった可能性が指摘されています。

人間との関係

捕鯨の歴史

タイセイヨウセミクジラは、その性質や体が脂肪を多く含むことから、古くから捕鯨の格好の対象とされてきました。学名や英語名も、捕鯨にとって「適切な（Right）」クジラであったことに由来すると考えられています。特に9世紀頃から始まったバスク人による大規模な捕鯨が有名で、彼らは高台からクジラを見つけ、小舟で接近してモリで捕獲する沿岸捕鯨を行いました。鯨油や鯨肉、そして鯨ひげは様々な用途で利用され、経済的に重要な資源でした。次第に捕獲海域は拡大し、多くの国が捕鯨に参入したことで乱獲が進み、19世紀までに個体数は激減しました。このため、1937年には国際的な協定により捕鯨が禁止され、保護対象となりました。

現代の保護活動と課題

タイセイヨウセミクジラを含むセミクジラ属は、最も早くから保護の必要性が訴えられた鯨類の一つです。しかし、捕鯨禁止後も混獲（漁網に絡まること）や船舶との衝突といった人為的な要因によって多くの個体が命を落としており、これが現在最大の脅威となっています。加えて、地球温暖化による生態系の変化（餌場の移動など）や海洋汚染なども、クジラの健康状態や繁殖に悪影響を与えています。その結果、個体数の回復は非常に遅く、2021年時点での推定個体数は約350頭にとどまっています。個体数が少ないため、近親交配による遺伝的多様性の低下も懸念されており、このままでは回復不能な段階に達する可能性も指摘されています。

こうした状況に対し、国際機関や各国の政府、研究機関、NGOなどが連携して様々な保護活動を展開しています。漁具の改良や規制、船舶の航行制限、観察船や航空機によるモニタリング、目撃情報の共有システム構築、そして啓発活動などが行われています。近年では、バイオ燃料や洋上風力発電といった新たなエネルギー開発計画とクジラの保護との両立も課題となっており、AI技術や音響モニタリングを活用した対策が検討されています。アメリカ政府は本種の保護のために多額の予算を投入することを決定するなど、その存続に向けた努力が続けられています。タイセイヨウセミクジラは、その保護を通じて他の海洋生物や環境全体の保全にも貢献する「アンブレラ種」としても重要視されています。

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