トラキスの女たち

ソポクレス『トラキスの女たち』：ヘーラクレース最期の悲劇

ソポクレス作『トラキスの女たち』（Τραχίνιαι, Trachiniae）は、ギリシア悲劇の中でも傑作として知られる作品です。ヘーラクレースという英雄の最期を、彼の妻デーイアネイラ、そして彼を取り巻く人々の視点から克明に描いています。単なる英雄譚ではなく、愛憎、嫉妬、復讐といった人間の深層心理を鋭くえぐり出し、観る者に深い衝撃と感動を与える作品と言えるでしょう。

物語の舞台は、ヘーラクレースの妻デーイアネイラが待つトラーキースの館です。ヘーラクレースはオイカリヤを征服し、その王女イオレーを愛人として連れて帰ります。オイカリヤの女たちは捕虜として館に連行され、ヘーラクレースの蛮行を目の当たりにした者たちが、デーイアネイラにその真実を告げます。ヘーラクレースがイオレーを手に入れるため、オイカリヤを滅ぼしたという事実です。伝令のリカースもまた、この事実を裏付けます。

デーイアネイラは、夫の浮気に激しい嫉妬心を抱きます。かつてケンタウロスであるネッソスから贈られたとされる「ネッソスの血」を、浮気防止の薬だと信じていました。彼女はヘーラクレースにその血を塗った衣を贈りますが、この「ネッソスの血」は実はヒュドラー（水蛇）の猛毒だったのです。

ケーナイオン岬での戦勝感謝の儀式で、その衣を身につけたヘーラクレースは、猛毒によって死の病に冒されます。激痛に苦しみ、衰弱していくヘーラクレースの姿は、英雄の悲劇的な最期を象徴的に描き出しています。

息子のヒュロスから真実を知らされたデーイアネイラは、自らの過ちと夫の死の悲しみを深く後悔し、自害という道を選びます。ヘーラクレースは息を引き取る前に、ヒュロスにイオレーと結婚するよう命じます。これは、英雄の最後の願いであり、同時に、新たな悲劇の始まりを予感させる終わり方でもあります。

この悲劇において重要な役割を担うのが、「トラキースの女たち」、つまりコロス（合唱隊）です。彼女たちは物語の進行を語り、登場人物たちの感情を代弁し、観客に様々な視点を与えます。彼女たちの歌やセリフを通して、悲劇の深層へと観客は引き込まれていくのです。

『トラキスの女たち』の上演年代は不明ですが、『アイアース』や『アンティゴネー』と共にソポクレス初期の作品と考えられています。それでもなお、人間の業を深くえぐり、普遍的なテーマを提示する、彼の代表作の一つとして高い評価を得ています。作品全体からは、人間の運命の悲劇性、愛憎の複雑さ、そして人間の脆さといったものが、力強く、そして繊細に表現されています。

様々な翻訳が存在することからも、この作品が現代においても読み継がれ、人々の心を捉え続けていることがわかります。日本語訳としては、大竹敏雄訳、風間喜代三訳、竹部琳昌訳など、複数の優れた翻訳が存在し、それぞれの翻訳によって作品の魅力を味わうことができます。また、エズラ・パウンドによる翻案も存在し、様々な角度からこの作品を理解することができるでしょう。 ソポクレスの『トラキスの女たち』は、今もなお、私たちの心に深く響く、不朽の名作なのです。

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