ノモス (エジプト)

ノモス（古代エジプトの行政区分）

古代エジプトにおいて、ノモス（古希: νόμος）とは、現代の県や郡に匹敵する行政的かつ社会的な地域単位を指します。エジプト語ではセパト（spȝt）と呼ばれていました。本稿では、エジプト語に言及する場合を除き、ギリシア語由来のノモスという呼称を用います。

名称と語源

ノモスという用語はギリシア語に由来し、アレクサンドロス大王によるエジプト征服とそれに続くプトレマイオス朝の成立以降、広く用いられるようになり、現代エジプト学においても標準的な用語として定着しています。一方、古代エジプト語での呼称であるセパト（spȝt）は、元来「地区」を意味する言葉でした。セパトを表すヒエログリフが灌漑用水路を示す格子状の象形であることは、この行政単位の起源が農耕と深く関連していた可能性を示唆しています。

起源と歴史

ノモスという行政単位がいつ頃古代エジプトに成立したかについては、歴史学者の間で議論が分かれています。一つの見解は、エジプトが統一される以前の先王朝時代に遡るというもので、もう一つは、統一王朝が成立した初期王朝時代以降に形成されたとする説です。結論はまだ定まっていません。しかし、ノモスの存在を示す最も確実な証拠は、第三王朝時代のジェセル王のピラミッドに見られるノモス名と、その長官の称号の記録です。これにより、少なくとも第三王朝時代にはノモスが存在していたことは確実視されています。先王朝時代や第一王朝時代の遺物の中にもノモスに関連する可能性のある図象は見られますが、これが実際にノモスを示すものかは断定されていません。

先王朝時代にノモスが成立したとする説では、灌漑システムの管理、土木工事、祭礼などを共同で行う地域共同体がノモスの原型であると考えられています。この場合、ノモスは小規模な部族国家や首長国家が統合と分裂を繰り返す中で生まれた地域的な統合体と捉えられます。対照的に、統一王朝以降の成立とする説では、ノモスは中央集権体制の確立後、行政効率を高める目的で人為的に創設された地方行政単位であると解釈されます。

標章と守護神

各ノモスには、それぞれ独自の標章と守護神が存在しました。標章は各ノモスを象徴するシンボルであり、ノモスはこの標章にちなんで「ノウサギ州」や「トキ州」のように呼ばれることもありました。守護神は、その地域の原始信仰、先祖供養、自然崇拝などを基盤として発生した、小規模共同体におけるアニミズム的な神が起源とされています。これらの神が近隣の町や集落に影響力を広げ、ノモスの守護神へと発展していきました。

守護神に対する信仰はノモスの住民にとって非常に重要であり、ノモスの領域は守護神によってイメージ化された象徴的な空間であったと考えられています。各ノモスの守護神にはしばしば聖獣が関連付けられており、プルタルコスのような古代の著述家も、各地域の住民が自分たちの聖獣を保護し、それに危害が加えられると激しく怒ったことを記しています。これは、守護神信仰がノモスの住民のアイデンティティと密接に結びついていたことを示しています。

ノモスの標章は地域の特性を色濃く反映していました。例えば、下エジプトのノモスにはウシを象った標章が多く見られる一方、上エジプトのノモスではほとんど見られません。また、国境地帯のノモスには武器を象った標章が多いなど、標章はノモスの歴史や地理的特徴を物語る資料となっています。

長官：州侯（ノマルコス）

ノモスの長官はノマルコスと呼ばれ、日本語では一般的に州侯と訳されますが、場合によっては知事とも称されます。州侯は原則として、担当するノモス内の農政、行政、治安維持などを統括しました。しかし、ノモスの3000年に及ぶ歴史の中で、州侯の地位や権限、その存在意義は大きく変化しました。

州侯に相当する役職は、古王国時代の後半に現れます。初期には、強力な中央集権のもと、王族や王に信任された高官が複数のノモスを交代で統治していたと見られています。第五王朝時代には、地方行政に関わる官吏の称号が多く見られるようになります。これらの地方行政官は次第に管轄するノモスに定住するようになり、首都メンフィスに設けていた墳墓を自身の居住地の近くに築くようになりました。これと並行して、複数のノモスを管理していた官吏は、徐々に単一のノモスのみを管轄するようになり、第六王朝時代には「○○ノモスの大総督」という、ほぼ州侯に対応する称号が登場しました。同時に、州侯の地位は世襲化が進み、在地豪族と化した州侯たちは、中央権力の弱体化に伴い（あるいはそれを原因として）、自立した勢力へと変貌していきました。

第一中間期には、ヘラクレオポリスやテーベといった強大な州侯たちが新たな王朝を樹立し、エジプトは分裂状態に陥ります。この分裂を収束させ、エジプトを再統一したのがテーベの州侯の一族であり、彼らが開いた王朝が中王国（第十一・第十二王朝）です。中王国前半期も、分裂時代に力を蓄えた各地の州侯の勢力はなお強く、彼らは大規模な墳墓を残しています。この時代の状況から、第十二王朝時代は「州侯の時代」とも評されることがあります。しかし、中王国の支配者たちは州侯の勢力削減を目指し、地方行政機構の改革を断行しました。これにより、エジプト全土は「北部」「南部」「南端部」の三つの地域に再編され、それぞれに運営を担当する「行政官」が配置されました。また、各ノモスは都市を拠点とする「市長」によって統括されるようになり、最終的には古王国以来の州侯の地位は事実上廃止されました。

中王国時代を経て、エジプトの行政区分は再び上下エジプトという伝統的な枠組みに戻されます。

領域と数

各ノモスの領域については、明確な境界線が完全に解明されているわけではありません。特に下エジプトは、ナイル川の氾濫による地形変動が著しく、不明な点が多く残されています。第十二王朝前期には行政的な境界がおおよそ規定されましたが、その後の改革や自然災害によって変動を繰り返しました。ノモス間での土地争いは絶えず発生し、時には国王自身が境界紛争の解決に奔走することもあったと記録されています。

地理的には、上エジプトのノモスは主にナイル川沿いの氾濫原（沖積平野）に広がっており、片側または両岸に及んでいました。下エジプトのノモスは、ナイル川の支流、砂漠、そして海によって区切られた範囲に存在しました。その大きさは、長さにして概ね30キロメートルから40キロメートル程度に収まり、これは当時の人々が徒歩で一日で移動可能な範囲でした。このようなサイズは、穀物の備蓄や農産物の市場へのアクセスといった経済的な距離も考慮されていたと考えられます。

ノモスの数は時代によって変動があり、古い時代の正確な数は不明です。最終的に、上エジプトに22、下エジプトに20という区分けが体系化され、確定したのは新王国時代の末期であると推定されています。現代エジプト学では、便宜的に各ノモスを番号で呼ぶことが多いですが、それぞれ固有の名前も持っていました。

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