パラスとケンタウロス

サンドロ・ボッティチェッリ『パラスとケンタウロス』

『パラスとケンタウロス』（伊: Pallade e il centauro, 英: Pallas and the Centaur）は、盛期ルネサンスのイタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリが1482年頃に制作した油彩画です。この作品は、ギリシア神話の女神パラス・アテナ（ローマ神話のミネルヴァ）を主題とし、情欲に勝利する貞潔の象徴として描かれています。

作品概要

ボッティチェッリの代表作の一つであり、『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』などと共に、彼の神話画・寓意画を代表する作品として知られています。当初はロレンツォ・デ・メディチのために制作されたと考えられていましたが、近年ではロレンツォ・デ・メディチの又従兄弟にあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの依頼によって制作されたと考えられています。現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されています。

制作背景

本作の制作背景には、大きく二つの説があります。

1. パッツィ戦争との関連: 1478年に起こったパッツィ家の陰謀によるロレンツォ・デ・メディチ暗殺未遂事件と、それに続くパッツィ戦争が、本作の制作背景にあるとする説です。ロレンツォ・デ・メディチは、この戦争を終結させるためにナポリ王国との和平交渉に成功しました。この出来事を、ボッティチェッリが寓意的に描いたとする見解があります。パラス・アテナをロレンツォ・デ・メディチの勝利の象徴として捉え、ケンタウロスをパッツィ家の「無法」の象徴として対比させていると考えられています。

2. 結婚式の祝い: 1482年のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコとセミラミーデ・アッピアーノの結婚式を祝うために制作されたとする説です。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコは、フィレンツェにおける新プラトン主義的な人文主義サークルであるアカデミア・プラトニカの中心人物、マルシリオ・フィチーノに学んでおり、この思想が作品に影響を与えている可能性も指摘されています。

制作時期については、様式から『プリマヴェーラ』と同時期の1482年頃とされており、ボッティチェッリがローマのシスティーナ礼拝堂の装飾事業から帰国した直後の作品と考えられています。ケンタウロスの特徴は、システィーナ礼拝堂に描かれた『モーセの試練』との類似性が指摘されています。

作品詳細

画面は、湖の前に立つ二人の人物、パラス・アテナとケンタウロスを描いています。パラス・アテナは精巧なハルバードを持ち、ケンタウロスの髪を掴んでいます。ケンタウロスは苦痛の表情でアテナを見返していますが、アテナは遠くを見つめており、その視線は交わりません。

パラス・アテナのドレスにはメディチ家の紋章がデザインされており、メディチ家のために制作された絵画であることが示唆されています。彼女の頭部には月桂樹あるいはオリーブの枝が絡まり、背には盾があります。ハルバードは歩哨が持つ武器であり、パラス・アテナが見張りの役割を果たしていると考えられます。背景には矢来が描かれ、二人がいる空間が区切られた領域であることが示唆されており、ケンタウロスは許可なく侵入したと解釈できます。ケンタウロスの左手は、弓を射ようとした瞬間に捕えられたことを示しています。

この二人の人物像は寓意的な意味を持つと考えられ、パラス・アテナは知恵、戦い、芸術などを守護する処女女神であり、ケンタウロスは制御されていない情熱、欲望、官能性の象徴とされています。したがって、この絵画は情欲に対する貞潔・理性の勝利を表していると解釈できます。

女性像は、初期にはカミラと呼ばれていましたが、後にローマ神話のミネルヴァと同一視されるようになりました。ただし、パラス・アテナの特徴である鎧や兜、ゴルゴンの首といった要素は描かれていません。また、美術史家の中には、フィレンツェの象徴である女神フローラとする説も存在します。

解釈

本作は、パッツィ戦争後の平和を寓意しているとする説や、ルネサンス期の新プラトン主義思想に基づく人間の魂の観念に関連づけて解釈する説があります。マルシリオ・フィチーノは、人間の魂を「低次の魂」と「高次の魂」に分け、理性が情欲を制御する重要性を説いています。この思想に基づけば、パラス・アテナは理性を象徴し、ケンタウロスは情欲を象徴していると解釈できます。

さらに、『プリマヴェーラ』との関連性も指摘されており、『プリマヴェーラ』のヘルメスの視線の先に本作が配置されていたことを踏まえると、『プリマヴェーラ』に描かれた愛の変容の物語と、本作に描かれた知性と貞潔の寓意が、一つの統合されたテーマを構成していると考えられます。

ロレンツォ・デ・メディチからの結婚祝いとして制作されたとする説では、パラスを花嫁の肖像であると解釈し、夫婦の貞節を寓意的に表現していると解釈しています。

来歴

1499年の記録によると、本作は『プリマヴェーラ』と共にロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの宮殿の寝室の控室に飾られていました。その後、ヴェッキオ宮殿を経て、1638年にはヴィラ・メディチ・ディ・カステッロに移されました。1830年までピッティ宮殿にありましたが、その後は歴史的関心の対象として見なされるようになりました。1895年にイギリス人の画家によって再発見され、1922年にウフィツィ美術館に収蔵されました。もともとは板絵でしたが、キャンバスに移し替えられています。

素描

パラス・アテナの素描が3点残されており、初期のアイデアを示すものの、最終的な図像とは異なる点が指摘されています。

結論

『パラスとケンタウロス』は、ボッティチェッリの卓越した技術と、ルネサンス期の思想が融合した傑作です。政治的な寓意、新プラトン主義的な解釈、そして芸術的な表現が見事に調和しており、鑑賞者に様々な解釈を促す奥深さを持っています。

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