ヒトラーの日記

ヒトラーの日記捏造事件：歴史を揺るがした偽書騒動

1983年、西ドイツの雑誌『シュテルン』が「ヒトラーの日記」を発見したと報道し、世界中を驚かせました。しかし、この日記は後に巧妙に捏造された偽書であることが判明し、大きな騒動となりました。この事件は、メディアの報道姿勢、歴史的資料の真贋、そして人間の欲望を浮き彫りにする出来事として、今もなお語り継がれています。

事件の発端

1981年2月、『シュテルン』の記者ゲルト・ハイデマンは、ナチス記念品のコレクターから「ヒトラーの日記」を入手したと発表しました。そのコレクターは、東ドイツの将官を兄弟に持つ人物で、日記は1945年4月にドレスデン近郊で墜落した航空機の残骸から回収されたと主張しました。日記は全部で27冊、加えてヒトラーの自伝『我が闘争』の未発表の第3巻も含まれており、1000万マルクという高額で買い取られました。

真贋鑑定の落とし穴

『シュテルン』は日記の真贋を鑑定するため、専門家を雇いました。しかし、筆跡鑑定に提出されたヒトラーの筆跡サンプルは、日記の偽造者自身によるものでした。そのため、筆跡鑑定は「本物」という結果を出してしまい、1983年4月25日の記者会見で大々的に発表されました。日記はドイツのほか、イギリスやアメリカでも出版されることになり、アメリカでは出版権を巡って激しい争いが繰り広げられました。

イギリスからは歴史家ヒュー・トレヴァー＝ローパーが派遣されました。彼は日記に歴史的矛盾を多数発見しましたが、先方が本物だと主張したため、日記が本物であると追認してしまいました。

偽造発覚

しかし、ドイツ警察の法医学者たちは、日記の用紙の化学分析から、紙の漂白剤や糸が第二次世界大戦後に開発されたものであることを突き止め、またインクも書かれてから日が浅いことを確認しました。これらの調査結果は1983年4月23日に報道され、日記が偽造であることが明らかになりました。この結果、トレヴァー＝ローパーの名声は大きく失墜しました。

事件の首謀者

日記を偽造したのは、コンラート・クーヤウという偽造の常習犯でした。彼はナチス時代のザクセン州ルーバウで生まれ、西ドイツに亡命後、ナチス関連の遺物売買で生計を立てていました。1978年、ナチ党年鑑からヒトラーのスケジュールを書き出し、東ベルリンで購入した学習用ノートにヒトラーの筆跡を模倣して日記を偽造しました。それを実業家フリッツ・シュティーフェルに販売し、シュティーフェルがハイデマンに日記を見せたことが、捏造事件の始まりでした。

クーヤウは逃亡しましたが、1週間後に出頭。裁判の結果、偽造と詐欺で懲役4年6月を宣告されました。

ハイデマンは日記の購入資金を横領していたことが判明し、横領罪で懲役4年8ヶ月を宣告されました。出版社の関係者も退職を余儀なくされ、会社は2000万マルク以上の経済的損失を被りました。

本物の「ヒトラー日記」

実際、ヒトラーは速記者に側近との談話を記録させていました。これらは「ヒトラーのテーブル・トーク」と呼ばれており、1942年と1945年2月の一部が発見されています。第二次世界大戦末期の1945年4月、ベルリンから脱出した輸送機には、1943年以降の記録が搭載されていましたが、連合軍機による襲撃でドレスデン近郊に墜落、記録は全焼したと見られています。しかし、事故現場から記録が持ち出されたという憶測も存在しました。

この事件が残した教訓

この事件は、歴史的資料の真贋を見抜くことの難しさ、メディアの報道姿勢、そして人間の欲望がもたらす結果を如実に示しました。また、この事件を題材にした1992年のドイツ映画『シュトンク!』は、人々が次第にエスカレートしていく姿をコミカルに描き、大きな話題となりました。

事件は、歴史を学ぶ上で、資料を多角的に分析し、鵜呑みにすることの危険性を教えてくれます。また、ジャーナリズムのあり方、そして私たち自身の倫理観についても深く考えさせられる出来事でした。

参考文献

ロバート・ハリス著、芳仲和夫訳『ヒットラー売ります 偽造日記事件に踊った人々』朝日新聞社、1988年
井上茂子「ヒトラーの日記」事件ー史料批判の力ー（上智大学文学部史学科刊『歴史家の工房』所収）
『詐欺とペテンの大百科』青土社、2001年
コリン・エヴァンス著、藤田真利子訳『不完全犯罪ファイル』明石書店、2000年
* 児島襄『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い』（文春文庫）

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