ピアノソナタ第31番 (ベートーヴェン)

ベートーヴェンが作曲したピアノソナタ第31番変イ長調 作品110は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる晩年の傑作の一つです。同じく後期を代表する第30番、第32番と並んで、ベートーヴェンのピアノソナタにおける集大成と位置づけられています。これらの最後の3作品は、『ミサ・ソレムニス』や『ディアベリ変奏曲』といった大規模な作品と同時期に、並行して作曲が進められました。

作曲中のベートーヴェンは、後にその命を奪うことになる病に一時的に伏しましたが、健康を回復した後に強い創作意欲をもってこのソナタを完成させました。楽譜には1821年12月25日と記されており、これが完成日と考えられていますが、終楽章には1822年に入ってからも手直しが加えられた形跡があると言われています。

このソナタは、前作にも増して深い叙情性を持ちながらも、どこかユーモラスな要素も含んでおり、ベートーヴェン晩年の豊かな感情が随所に表現されています。特に革新的な終楽章に書かれた指示書きは、作曲家を苦しめた病との関連で論じられることも少なくありません。

献呈に関しては複雑な経緯があります。1822年2月18日付の書簡から、このソナタは次の第32番と共に、ベートーヴェンと親交の深かったアントニー・ブレンターノ夫人に献呈される予定だったことがわかっています。しかし、実際に出版された楽譜には献辞が掲げられておらず、献呈者なしとなりました。その理由を明確に示す証拠は見つかっていないため不明です。ブレンターノ夫人への献呈が検討される以前には、弟子のフェルディナント・リースに捧げられる予定だったとする説もあります。楽譜は1822年7月、シュレジンガーやシュタイナーなど複数の出版社から刊行されました。

ベートーヴェンは後期作品において、フーガの技法を重視する傾向にあります。このソナタの終楽章は、最後の3つのピアノソナタの中でも最も典型的な形でフーガが用いられています。音楽学者のドナルド・フランシス・トーヴィーは、このフーガについて「ベートーヴェンの描くあらゆる幻想と同じく、このフーガは世界を飲み込み、超越するものである」と評しました。

このソナタの演奏時間はおよそ18分です。

楽曲構成

第1楽章：Moderato cantabile molto espressivo（変イ長調 3/4拍子）
ソナタ形式で書かれており、「con amabilità（愛をもって）」という指示が付されています。序奏はなく、冒頭から優しく歌われる第1主題が提示されます。この第1主題の後半部分は、ベートーヴェン自身がお気に入りで、ヴァイオリンソナタ第8番の第2楽章を含む他の作品にも度々引用しています。一方で、この旋律がハイドンの交響曲第88番第2楽章からの借用であるという説もあります。第1主題に続いてアルペッジョによる華やかな走句が現れ、変ホ長調で歌われる第2主題へと移ります。提示部の繰り返しはなく、すぐに展開部に入ります。展開部では、低音域のオスティナートに乗って第1主題冒頭の動機が転調を繰り返しながら奏されます。再現部では第1主題が細かな伴奏と共に回帰し、第2主題は主調である変イ長調で現れます。コーダでは経過部のアルペッジョが再び登場し、第1主題の断片を回想しながら静かに楽章を閉じます。

第2楽章：Allegro molto（ヘ短調 2/4拍子）
三部形式によるスケルツォ的な楽章です。軽快でありながらも、全体にどこか不気味な雰囲気を漂わせています。第1部の旋律は、当時の流行歌から採られたと言われています。具体的には、「うちの猫には子猫がいた」と「私は自堕落、君も自堕落」というコミカルなタイトルの歌が引用されています。これらの旋律が繰り返された後、中間部に入ります。中間部は非常に簡素で、下降する音型と上昇するシンコペーションの音型が交差する楽想が繰り返されるだけです。中間部が終わると第1部がほぼそのまま再現され、コーダでは音量と速度を落としながら、休みなく終楽章へと続きます。

第3楽章：Adagio, ma non troppo - Fuga. Allegro, ma non troppo（変イ長調 6/8拍子）
この終楽章は、極めて斬新な構成と内容を持っています。まず大規模な変ロ短調の序奏で始まります。この部分の自筆譜には多くの修正跡が見られ、ベートーヴェンが深く推敲を重ねたことが伺えます。「レチタティーヴォ」と記された楽想は、頻繁にテンポを変えながら進行します。ここでタイで繋がれたイ音にベートーヴェン自身が運指を指定している箇所は、かつてクラヴィコードで可能だった演奏効果を想定したものだという説があります。

続いて、変イ短調で「嘆きの歌」（Klagender Gesang）が切々と歌い始められます。この下降する哀しい旋律は、バッハの『ヨハネ受難曲』中のアリア「Es ist vollbracht（全て終わった）」との関連が指摘されています。

その後、変イ長調で3声のフーガが開始されます。このフーガの主題は、第1楽章の第1主題に基づいたものであり、全曲を統一する重要な役割を果たしています。フーガは自由に変形されながら展開し、一度目の大きな盛り上がりを築きます。

頂点を迎えた後、再び「嘆きの歌」が現れます。ここでは「疲れ果て、嘆きつつ」（Ermattet, klagend）と指示されており、ト短調で休符によって寸断された、途切れ途切れの旋律が歌われます。

クレッシェンドを経て、今度は「次第に元気を取り戻しながら」（Poi a poi di nuovo vivente）という指示とともに、再び3声のフーガが始まります。この二度目のフーガの主題は、先ほどのフーガ主題の反行形（上下が逆になった形）で、ト長調で開始されます。

この二度目のフーガでは、主題の縮小形や拡大形が現れるなど対位法的な展開が進み、メノ・アレグロでさらに短い縮小形を出しつつ、調性がト長調から主調である変イ長調へと戻ります。同時に、最初のフーガ主題が堂々とバスの音域に回帰します。その後は対位法の厳格さから離れ、一層大きな歓喜を表すかのように、最後に向かって徐々に速度と力を増していき、高らかに全曲を締めくくります。

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