ミメーシス (アウエルバッハ)

ミメーシス

『ミメーシス：ヨーロッパ文学における現実描写』は、著名な比較文学者エーリヒ・アウエルバッハが1946年に発表した主著です。この作品は、ホメーロスから20世紀に至る約3000年間にわたるヨーロッパの文学作品を対象に、作品中で現実がどのように描写され、表現されてきたかを詳細に分析したものです。アウエルバッハは、文芸における現実描写を「模倣（ミメーシス）を通じた現実の解釈」と定義し、時代ごとの文学様式と現実認識の変化を壮大なスケールで描き出しています。

研究の射程と背景

本書の特筆すべき点は、その研究対象の広範さにあります。古代ギリシャ・ローマの古典から中世、ルネサンスを経て近代文学に至るまで、多岐にわたる時代の代表的な作品が論じられています。この分析は単なる文学史にとどまらず、それぞれの時代の精神や人間観がいかに描写方法に反映されているかを深く掘り下げています。本書の執筆は、アウエルバッハがナチスの迫害を逃れてトルコに亡命していた第二次世界大戦中に進められました。困難な状況下で書かれたこの著作には、失われたヨーロッパの歴史と文化への深い愛情が込められており、分断された人々を再び結びつけたいという著者の願いも読み取れます。

分析の視点

アウエルバッハの分析は、いくつかの重要な視点に基づいています。彼は、19世紀フランスの写実主義（リアリズム）が、古代以来の文学における様式水準（高貴な主題は荘重体、低い主題は卑近体で描写するという慣習）の区分を打ち破った画期的な現象であると指摘します。また、16世紀から17世紀にかけて、古典の厳格な模倣を目指す動きが、後のロマン主義やリアリズムへの道を開く一方で、現実描写のあり方をめぐって新たな壁を築いたことにも注目します。さらに、古典古代の末期や中世のキリスト教文学に見られる現実感は、近代のリアリズムとは根本的に異なると論じ、これを「比喩形象的（フィグラル）」な描写様式として特徴づけています。

文学史上の変遷

本書は全20章からなり、各章で具体的な作品を取り上げながら描写の変遷をたどります。

古代の叙事詩と聖書

第1章では、ホメーロスの『オデュッセイア』と旧約聖書の「イサクの燔祭」を比較し、ホメーロスに見られる均質な描写と、旧約聖書に見られる光と影の対照や暗示に富む断続的な描写の対照性を論じます。聖書の出来事がキリストの降臨を予告する比喩形象として解釈されていく過程にも触れています。

ローマから中世へ

ペトロニウスやタキトゥスのローマ文学に見られる写実的な手法と、その限界（鳥瞰的な視点）を指摘し、新約聖書における社会的身分の低い人々の描写との違いを対比させます。中世初期のトゥールのグレゴリウスの散文の変容や、武勲詩『ロランの歌』における荘重体の誕生と民衆語への移行、個々の事件に焦点を当てる描写の出現をたどります。

ダンテと近世の多様性

ダンテの『神曲』が、当時のイタリア語としては驚くほど豊かな様式混交体を用い、地上と彼岸を結ぶ比喩形象的な世界観を構築したことを論じます。ボッカッチョ『デカメロン』における客観的な散文芸術の発生、ラブレー『ガルガンチュワとパンタグリュエル』における自由な精神と生物的リアリズム、モンテーニュ『エセー』における近代的な自己探求、シェイクスピアにおける悲劇と喜劇、崇高と低俗の混合など、近世の多様な現実描写を分析しています。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、日常の現実を多層的かつ無問題的に描いた作品として高く評価されています。

古典主義と近代リアリズム

17世紀フランスの古典主義が、悲劇的な主題と日常的な現実を厳格に分離したことを指摘します。18世紀以降、リアリズムと「真面目さ」が接近し、回想録や日記といった形式も重要性を持ち始めます。そして、19世紀のスタンダール、バルザック、フローベールといった作家たちによって、近代リアリズムが確立された様を詳述します。彼らは地方の生活や日常的な出来事を、歴史の流れの中に位置づけて描きました。ゴンクール兄弟やゾラによる下層社会の描写、ドストエフスキーに代表されるロシア・リアリズムの深みにも触れています。

20世紀の描写

最終章では、プルースト、ジョイス、ヴァージニア・ウルフといった20世紀の作家たちの作品を取り上げ、意識の流れや内的独白といった手法による現実描写を分析します。多人数の意識の描写、外的時間と内的時間の対比、語り手の視点の移動といった特徴を挙げ、些細な出来事の中に生の深みを見出す現代リアリズムのあり方を示しています。

評価と影響

『ミメーシス』は発表以来、文学研究における古典として広く認められています。エドワード・サイードは自身の著作『オリエンタリズム』でアウエルバッハの研究姿勢を高く評価し、本書の英語版にはサイードによる序文が寄せられています。本書は、単一の文学史観にとらわれず、多様な作品に光を当てながら「現実をいかに語るか」という文学の根源的な問いを探求した、記念碑的な業績と言えるでしょう。

もう一度検索