ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)

ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1806年に完成させたヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61は、彼の創作中期を代表する傑作の一つとして知られています。ベートーヴェンはヴァイオリンと管弦楽のための作品を他に3曲残していますが、完成された協奏曲はこの作品のみです。その完成度の高さから「ヴァイオリン協奏曲の王者」とも呼ばれ、メンデルスゾーンの作品64、ブラームスの作品77と並び「三大ヴァイオリン協奏曲」と称されることもあります。

この協奏曲は、同時期の交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番に通じる叙情的な美しさを持ち、伸びやかな表情が印象的です。この作風の背景には、ヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との恋愛があったとも言われています。本稿では、この作品の成立過程から、各楽章の構成、そしてカデンツァの歴史まで詳細に解説します。

作曲の経緯

作品の具体的な構想時期を特定する確かな証拠はありませんが、交響曲第5番のスケッチにこの協奏曲の主題が書き込まれていたことが知られています。いずれにしても、この作品はベートーヴェンが「傑作の森」と呼んだ中期における、最も充実した創作期に生まれたものです。作曲にあたり、ベートーヴェンは当時のアン・デア・ウィーン劇場のコンサートマスターであったフランツ・クレメントを独奏者に想定し、彼の助言を受けながら作曲を進めました。完成した草稿はクレメントに捧げられましたが、1808年に出版された際には親友のシュテファン・フォン・ブロイニングに献呈されました。

初演

1806年12月23日、アン・デア・ウィーン劇場にて、フランツ・クレメントの独奏により初演されました。驚くべきことに、この時まで作曲は完全に終わっておらず、クレメントはほぼ初見でこの難曲を演奏したにもかかわらず、聴衆から熱烈な喝采を浴びました。しかし、初演後、この作品が演奏される機会は減少し、存在感も薄れていきました。再び脚光を浴び、「ヴァイオリン協奏曲の王者」と呼ばれるまでの知名度を獲得する上で重要な役割を果たしたのが、ヨーゼフ・ヨアヒムです。ヨアヒムはこの作品を最も偉大なヴァイオリン協奏曲と称賛し、生涯にわたり演奏し続けました。

楽器編成

独奏ヴァイオリン、フルート（第2楽章は休止）、オーボエ2（第2楽章は休止）、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2（第2楽章は休止）、ティンパニ（第2楽章は休止）、弦楽五部

演奏時間

約48分

作品の内容

第1楽章

アレグロ・マ・ノン・トロッポ ニ長調
協奏風ソナタ形式

ティンパニの刻むリズムで始まり、オーボエが牧歌的な第一主題を奏でます。穏やかな雰囲気から一転、全奏で変ロ長調の和音が現れます。その後、シレジア民謡に基づく第二主題がフルート以外の木管楽器で演奏されます。弦楽器のトレモロや金管楽器が加わり、オーケストラ提示部が締めくくられます。独奏ヴァイオリンは、ティンパニのモチーフを伴いながら第一主題を奏で、独奏提示部に入ります。第二主題はイ長調で、独奏ヴァイオリンのトリルに乗せてクラリネットが演奏します。展開部では、第一、第二主題が巧みに展開され、再現部では独奏ヴァイオリンがオクターブによる重音で第一主題に加わります。カデンツァの後、弦楽器のピチカートに乗せて、独奏ヴァイオリンが静かに第二主題を奏で、力強く楽章を終えます。演奏時間は約25～26分。

第2楽章

ラルゲット ト長調
変奏曲（または変奏曲の主部を持つ三部形式）

弱音器をつけた弦楽器によって、穏やかな主題が提示されます。第1変奏から第3変奏まで、独奏ヴァイオリンは主題を担当せず、装飾的な動きに徹します。第1変奏ではホルンとクラリネット、第2変奏ではファゴットが主題を担当します。第3変奏を経て、独奏ヴァイオリンがG線とD線のみで新しい旋律を奏でる中間部に入ります。この旋律が華やかに変奏された後、主部の主題が中間部の主題と絡み合います。独奏ヴァイオリンの短いカデンツァ（ベートーヴェン自身による）を経て、第3楽章へと続きます。演奏時間は約11～12分。

第3楽章

ロンド アレグロ ニ長調
ロンド形式

独奏ヴァイオリンがロンド主題を提示し、オーケストラがこれを繰り返します。続いて、独奏ヴァイオリンが朗らかな第一副主題を演奏し、重音奏法を使いながらロンド主題を再現します。感傷的な第二副主題をファゴットが引き継ぎ、独奏ヴァイオリンが装飾音を加えてロンド主題を再帰させます。カデンツァの後（ベートーヴェンはカデンツァを作曲していません）、独奏ヴァイオリンとオーケストラが輝かしいクライマックスを築き、全曲を力強く締めくくります。演奏時間は約10分。

カデンツァ

この協奏曲では、3つの楽章それぞれにカデンツァが必要です。ベートーヴェンは、ピアノ協奏曲では（第5番を除く）全てにカデンツァを作曲しましたが、ヴァイオリン協奏曲にはカデンツァを残しませんでした。これは、彼自身がヴァイオリンをピアノほど弾きこなせなかったため、演奏者（クレメント）に任せたためと考えられています。

多くのヴァイオリニストが独自のカデンツァを作曲しており、中でもヨーゼフ・ヨアヒム、レオポルト・アウアー、フリッツ・クライスラーらのものがよく演奏されます。また、ベートーヴェン自身がピアノ協奏曲に編曲した際のカデンツァに基づくものや、アルフレート・シュニトケによるものも存在します。

ピアノ版カデンツァに基づくもの

ヴォルフガング・シュナイダーハンは、ピアノ協奏曲編曲版のカデンツァをヴァイオリン用に編曲し、録音に使用しました。この編曲では、ピアノパートをヴァイオリンに置き換え、ティンパニのパートはそのままティンパニで演奏しています。ルッジェーロ・リッチやトーマス・ツェートマイヤーも同様の編曲を使用しています。

ギドン・クレーメルは、ピアノ協奏曲編曲版のカデンツァを一部ピアノパートを残したまま編曲し、演奏に使用しました。イザベル・ファウスト、クリスチャン・テツラフ、パトリシア・コパチンスカヤなども、同様にピアノ協奏曲版のカデンツァを編曲して演奏に用いています。

シュニトケ版カデンツァ

アルフレート・シュニトケが書き、クレーメルが改作したカデンツァは、同じ曲だけでなく、ベルクやブラームスなど、他の作曲家の作品からも素材を引用しています。また、ヴァイオリンだけでなく、ティンパニやファゴットも演奏に参加しています。このカデンツァは、旧ソ連のヴァイオリニスト、マーク・ルボツキーのために書かれました。

ピアノ協奏曲 ニ長調 作品61a

1807年、ベートーヴェンはクレメンティの勧めでこの曲をピアノ協奏曲に編曲しました。ピアノ版は、ヴァイオリン協奏曲の献呈先であるシュテファン・フォン・ブロイニングの妻、ユーリエに献呈されました。ユーリエはピアニストで、この編曲はベートーヴェンから親友夫妻への結婚祝いのプレゼントであったと考えられています。

ベートーヴェンは、ヴァイオリン協奏曲にはカデンツァを書きませんでしたが、ピアノ協奏曲には入念なカデンツァを書いています。特に第1楽章のカデンツァは125小節にも及ぶ長大なもので、ティンパニを伴う特徴的なものです。このカデンツァは、ヴァイオリン用に編曲され、ヴァイオリン協奏曲の演奏にも用いられることがあります。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲として完成しているのは、第1番から第5番「皇帝」までの5曲ですが、未完のピアノ協奏曲ニ長調Hess 15を「ピアノ協奏曲第6番」、このヴァイオリン協奏曲の編曲版を「ピアノ協奏曲第7番」と呼ぶことがあります。

脚注

外部リンク

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61の楽譜)
ピアノ協奏曲 ニ長調 作品61aの楽譜)
* Toscanini, Heifetz, 1940

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