ヴィーナスとマルス (ボッティチェッリ)

ボッティチェッリの傑作『ヴィーナスとマルス』

サンドロ・ボッティチェッリが1485年頃に描いた油彩画『ヴィーナスとマルス』は、ギリシア神話の愛の女神アプロディテ（ローマ神話のヴィーナス）と戦いの神アレス（ローマ神話のマルス）を題材にした、美と勇気を象徴する寓意画です。ボッティチェッリの代表作の一つでありながら、『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』とは異なり、フィレンツェのウフィツィ美術館ではなく、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。

制作背景

この作品は、結婚を祝うために制作された可能性が高いと考えられています。横長の構図や人物像の配置から、新婚夫婦の寝室を飾る家具の一部として設置された、あるいは婚礼用のカッソーネに用いられたという説があります。ボッティチェッリは、メディチ家の詩人であり人文主義者であったアンジェロ・ポリツィアーノのような助言者から寓意的意味を学び、絵画のコンセプトを練り上げたと考えられています。

制作年については諸説ありますが、ナショナル・ギャラリーは「1485年頃」としています。他の研究者からは「1483年頃」や「1480年代後半」といった説も出ていますが、いずれも様式分析に基づいた推測であり、結婚式などの特定の日付との関連を示す証拠はありません。

作品の詳細

画面には、ヴィーナスとマルスがゆったりとくつろいでいる様子が描かれています。マルスは眠り込んでおり、その傍らで幼いサテュロスたちがマルスの武具で戯れています。一方、ヴィーナスはマルスを見つめています。マルスの横には蜂の巣があり、周囲を蜂が飛び交っていますが、マルスは眠り続けたままです。

二人の背後には、ギンバイカや月桂樹が生い茂る森が広がっており、これらの植物は伝統的にヴィーナスや結婚と関連付けられています。また、背景には牧草地や城壁のある都市が描かれています。

美術史家ロナルド・ライトバウンは、マルスを「ボッティチェッリの最も完璧な男性のヌード」と評していますが、実際にはボッティチェッリは多くの男性のヌードを描いていません。彼は、解剖学的な正確さよりも、絵画の美しさや寓意を重視していたと考えられます。

絵画の主題は、愛と官能性、そしてそれらがもたらす喜びを表現していると解釈されています。槍や巻貝は性的象徴とみなされ、ヴィーナスは結婚しているため衣服を身に着けていますが、マルスとは不貞の関係にあります。また、マルスの周りを飛ぶ蜂は、愛には苦痛が伴うことを暗示しているという解釈や、絵画の依頼主であるヴェスプッチ家を象徴しているという説があります。ヴェスプッチ家の紋章には蜂が描かれており、画面右上の蜂の巣はその紋章の位置に配置されています。

この絵画は、古代ローマの詩人ルキアノスが記述した、アレクサンドロス大王とロクサーネの結婚式を描いた絵画を参考にしているとも言われています。ルキアノスの記述には、式典中に鎧で遊ぶエロスやプットーが登場しており、ボッティチェッリは古典的な知識を持つ人文主義者と協力して絵画を制作したと考えられます。

作品の解釈

一般的には、この絵画は結婚を祝うために制作されたものであり、愛の喜びを表現していると考えられています。新プラトン主義的なルネサンス期の考え方では、愛と官能性は肯定的に捉えられていました。

美術史家ジョン・アディントン・シモンズは、ヴィーナスの表情に着目し、いびきをかいて眠る恋人に我慢している女性の憤りを象徴しているのではないかと解釈しました。また、チャールズ・デンプシーは、サテュロスたちが「性的恐怖」を誘発する存在であり、ヴィーナスは男性を苦しめる空虚な官能的な幻想を表していると解釈しました。

別の解釈では、画面右下のサテュロスが手にしている植物がシロバナヨウシュチョウセンアサガオの実であると指摘しています。この植物は麻酔作用があり、マルスの眠りを暗示している可能性があります。しかし、この植物が1480年代にイタリアに存在していたのかについては疑問が残されています。

また、この植物はアロエの一種であるという説もあり、これは性的な興奮を高める効果があるとされています。さらに、アダムとイブのような夫婦関係を暗示しているという説もあります。

モデルについて

モデルについては、マルスはジュリアーノ・デ・メディチ、ヴィーナスはシモネッタ・ヴェスプッチであるという説が有力です。しかし、ジュリアーノは絵画制作の5年前に暗殺されており、シモネッタも絵画制作より前に亡くなっているため、この説には疑問も残ります。二人は当時、美男美女として知られており、ボッティチェッリのインスピレーション源となった可能性はあります。

来歴と影響

19世紀後半にボッティチェッリの芸術が再評価されるまで、彼の作品は長い間忘れられていました。『ヴィーナスとマルス』は、1874年にナショナル・ギャラリーが購入しました。これは、ボッティチェッリの神話画が市場に現れた唯一の事例です。

この作品は、ピエロ・ディ・コジモの『ヴィーナス、マルスとキューピッド』に影響を与えたと考えられています。両作品とも、眠るマルスと目覚めるヴィーナス、マルスの武具で遊ぶ子供たちが描かれており、共通点が見られます。

まとめ

『ヴィーナスとマルス』は、ボッティチェッリの卓越した技量と豊かな寓意性を兼ね備えた傑作です。その美しさ、官能性、そして象徴的な意味は、今なお多くの人々を魅了し続けています。

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