乙前

平安時代を彩った女性芸能者、乙前：後白河院に仕えた歌の師

乙前（おとまえ）は、平安時代末期に活躍した今様歌いとして知られる女性です。正確な生年は不明ですが、没年は嘉応元年（1169年）から安元3年（1177年）までの間とされています。2月19日が命日と伝えられています。彼女は、後白河院（後白河天皇）の今様の師として、その名を知られています。晩年には五条尼と呼ばれていました。

美濃国から都へ：傀儡師の養女として

乙前は、美濃国青墓宿（現在の岐阜県大垣市青墓付近）を拠点とした傀儡師、目井の養女でした。12～13歳頃より、目井と源清経から今様を学び、彼らと共に京都へと上京します。持ち前の美しい歌声で、当時、今様界で名の知れた存在となったと推測されますが、全盛期の詳細な活動については、残念ながら記録は残されていません。多くの弟子を持つことはなく、比較的若くして芸能界から引退し、五条あたりで静かに暮らしていたようです。

後白河院との出会い：師弟の絆

保元の乱を経て、再び今様に傾倒し始めた後白河天皇は、かねてから乙前の歌を聴いてみたいと願っており、側近の信西入道（藤原通憲）に相談を持ちかけます。偶然にも、信西が乙前の子供を召抱えていたことから、保元3年（1158年）正月中旬、ついに後白河院と乙前は対面し、師弟関係を結ぶこととなります。

その後、乙前は御所に部屋を与えられ、頻繁に招かれ、後白河院に今様を伝授しました。師弟関係は10年以上続き、後白河院は在位中の天皇、そして上皇として、一貫して乙前を師として敬意を払い、厚遇しました。これは、当時の市井の芸能者、あるいは遊女の身分であった乙前にとって、類まれな経験であったと言えるでしょう。

後白河院との交流：逸話と深い信頼

後白河院からの最初の招きに際し、乙前は年齢や長年の引退を理由に固辞しましたが、院の熱心な要請を受け、ついに宮中へと赴きます。当時人気を博していた阿古丸という歌い手とは異なる独自のスタイルで歌った乙前の歌は、後白河院によって、目井の正調を受け継いだものとして高く評価されました。

『梁塵秘抄』に収録された多くの今様歌や秘曲・大曲は、乙前を通して後世に伝えられたと考えられています。例えば、『足柄』という大曲は、白河院の時代に足柄明神が歌ったものを、なびきが子の四三に伝え、さらに乙前へと受け継がれたという伝承があります。

乙前が病に倒れた際には、後白河院は自ら見舞いに行き、法華経を読み聞かせ、薬師如来を賛嘆する今様を歌いました。この歌は、かつて源清経が危篤に陥った際、目井が歌って命を救ったという、乙前にとって思い出深い歌でした。

乙前の死後、後白河院は50日間朝に法華経、夕に阿弥陀経を読み、一周忌まで法華経を読み続けるなど、深い悲しみと供養の念を表しました。しかし、一周忌の際には、乙前は経よりも今様を喜んでくれるだろうと考え、乙前から学んだ今様を夜通し歌い続けました。当時、院に仕えていた丹波という女房は里帰り中に、夢の中で院と乙前が今様を歌い合う姿を見たという逸話も残されています。その後も、院は乙前の命日には欠かさず今様を歌い、その霊を弔ったと伝えられています。

謎多き生涯：歴史に名を残した女性芸能者

乙前の生涯は、多くの謎に包まれたままですが、後白河院との深い信頼関係、そして彼女が後世に伝えた今様は、平安時代末期の文化史において重要な位置を占めています。彼女の生き様は、当時の女性芸能者の地位や活躍、そして芸術文化の伝承について、貴重な知見を与えてくれると言えるでしょう。彼女が残した歌声は、現代にまで響き渡る、歴史の証人と言えるのではないでしょうか。

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