十六歳の日記

『十六歳の日記』は、川端康成が16歳（満14歳）の時に書いた短編実録小説です。この作品は、寝たきりの祖父の病状を写実的に記録した日記であり、川端が少年期に書いた最も古い執筆作であり、実質的な処女作とされています。

発表までの経緯

日記は執筆から10年後、川端の伯父の倉から発見されました。27歳になった川端自身によって注釈や補足、あとがきが加えられ、作品として発表されました。当初は1925年に雑誌『文藝春秋』に「十七歳の日記」、「続十七歳の日記」として連載され、その後1927年に「十六歳の日記」と改題され、短編集『伊豆の踊子』に収録されました。この作品を収録することを勧めたのは、作家の梶井基次郎でした。

1948年には全集に収録され、その際に「あとがき」中で言及された2章目が追加されています。さらに、1959年の全集収録時には、新たなあとがきが加えられました。海外では、英語、韓国語、ドイツ語、スペイン語、中国語などに翻訳され、世界中で読まれています。

日記の発見

日記は1914年（大正3年）5月4日から5月16日まで、川端が中学3年生（数え年16歳）の時に書かれたものです。祖父が亡くなった5月24日の8日前で日記は途絶えています。日記が発見されたのは、執筆から10年後、川端の伯父が所有する倉の隅にある革のカバンの中でした。伯父の家が破産して人手に渡る前に、倉を捜索したところ、父親が往診時に使っていた革のカバンが見つかったのです。当時、川端は日記の内容をあまり覚えていませんでした。

1948年、全集を編集する際に古い日記帳を探したところ、この日記の続きと思われる断片も発見されました。そこには日付がありませんでしたが、発表された5月16日以降、さらに死に近づいた日の記述と推測されています。

川端は『十六歳の日記』について、「字句の誤りを正したほかは、十六歳の時の原文そのままである。後年書き直さうにも、書き直しようがないからである」と語り、「私の唯一の真率な自伝であり、私には尊い記録」としています。

日記の内容

日記には、夕方に中学校から帰宅した少年が、寝たきりの祖父と二人暮らしの淋しさや悲しさを感じながら、祖父の介護をする様子が描かれています。白内障で盲目の祖父は、耳も遠く、寝返りもままなりません。少年が帰宅を知らせると、祖父は「ししやってんか。ええ」と唸ります。少年は、祖父のために尿瓶をあてがいますが、その時に祖父が痛みを訴える声を聞き、涙ぐみます。尿瓶の底には、谷川の清水のような音がします。祖父は自分の死を自覚しており、妹に会いたいという葉書を少年に書かせます。

家事や祖父の介護を手伝う近所の女性・おみよは、祖父が便秘で苦しんでいることを、お稲荷さんに占ってもらいます。お稲荷さんによると、祖父の腹の中に「毛物（獣）」が憑いているとのことです。少年は迷信だと感じつつも、倉から剣を取り出し、祖父の寝床の上で空気を打ち振ります。祖父は次第にボケ症状が進み、食事をしたことを忘れたり、夕方に「学校へ行きましたか」と尋ねたりします。真夜中に祖父が苦しそうな声を上げると、お稲荷さんの言葉が少年の胸の中で何度も繰り返されます。

少年は、日記が100枚になれば祖父が助かるのではないかという思いを抱きながら、日記を書き続けます。祖父の小水の世話は苦痛であり、夜中に何度も起こされることに腹を立てることもあります。朝、おみよにそのことを話すと、祖父は昼間、おみよが来ないことを「泣いて暮らしてました」と口癖のように言うそうです。盲目で耳も遠い祖父にとって、それが真情なのだと少年は考えます。介護中、少年は不満や嫌味を言ってしまうことがあり、祖父に謝られるたびに自己嫌悪に陥ります。しかし、おみよが夜にもう一度見に来ると言うのを聞いても、「わしがいるから来いでもええ」とはっきり言えません。

ある夜、机の引き出しを探していると、祖父が弟子に口述させた草稿「講宅安危論」を見つけます。祖父は八卦や家相学がよく当たると評判でしたが、自分の本を出版することはできませんでした。また、祖父は漢方薬にも詳しく、村人の赤痢を治すこともありましたが、その薬を広めたいという願いも叶いませんでした。祖父は自分の死後、一人残される少年のことを案じています。

その後の断片

日記には、その後日の断片も残されています。祖父が医者を嫌っていたため、なかなか医者を呼ばなかったのですが、いよいよ診てもらうことになり、お常婆さんに頼んで医者を呼びに行かせます。しかし、医者は留守でした。祖父の命は、この日記が終わるまで続かないだろうと感じた少年は、途方に暮れます。

あとがき

祖父が亡くなったのは、昭憲皇太后のご大葬の夜でした。その日の朝、少年は学校へ行くのを迷いましたが、遥拝式にはどうしても参列したかった。祖父は「日本国民の務めやさかい」と少年に言い聞かせ、送り出します。学校での遥拝式を終えた少年は、一里半の道を跣足で走って帰宅します。その夜、祖父は夜の12時過ぎまで生きていました。

祖父の死後、少年は伯父の家に引き取られます。家を売るときは辛かったが、その後、下宿生活を送るにつれて、家への思いは薄れていきました。しかし、祖父に対して悪いという思いはなく、死者の叡智と慈愛を信じていました。

登場人物

私（川端康成）：16歳（数え年）の中学3年生。寝たきりの祖父と二人暮らし。祖父から「ぼんぼん」と呼ばれています。
祖父：75歳。白内障で盲目。耳も遠い。寝たきりで尿瓶で用を足します。食欲はありますが、便秘に苦しんでいます。
おみよ：50歳前後の百姓女。毎朝晩、少年の家に来て、家事や祖父の介護を手伝います。
お常婆さん：出入りの家の老婆。おみよが来られない時に代わりに来ます。
* 四郎兵衛：分家の老人。祖父の見舞いに来ます。

当時の川端少年の境遇

川端は幼い頃に両親を亡くし、祖父と祖母に育てられました。祖母が亡くなった後は祖父と二人暮らしをしていました。当時、川端は毎日一里半の道を歩いて茨木中学校に通っていました。小説家を志していたことを祖父にも伝えていました。

川端は、祖父の容態が悪化したことをきっかけに、祖父の姿を集中して写すために、この日記を書きました。

祖父・三八郎と川端康成

川端は生涯にわたり、祖父について語っています。「祖父は私が共に生きたと思へる、ただ一人の肉親であつた」と述べています。また、処女作『ちよ』では「十六の年に、祖父は、死んでもお前の身を護るとの言葉を残して死にました」と書いています。

川端家は代々庄屋であり、大地主でしたが、祖父は財産をほとんど失いました。祖父は、八卦や家相学に詳しく、漢方薬の研究もしていました。しかし、それらを世に広めることはできませんでした。財産を失っても、孫の康成のことは常に案じていたようです。

作品評価・研究

『十六歳の日記』は、川端の最古の執筆作であり、川端文学の原点ともいえる作品です。立原正秋は、尿瓶に放尿する音を「しびんの底には谷川の清水の音」と表現するところに、川端の美意識を感じています。伊藤整は、醜いものを美しいものに転化する川端の表現方法を評価しています。山本健吉は、祖父と少年の関係が的確に描かれているとしています。小林秀雄は、この日記から「子供といふものの恐ろしさ」を読み取っています。板垣信は、写実的な筆致と同時に、少年の感傷も感じ取っています。

また、川嶋至は、この日記を「二十七歳の日記」だとして、フィクションが含まれているのではないかと考察しています。一方で、奥野健男は、川端が少年期に書いた貴重な記録であるとしています。林武志は、この日記が晩年の川端に影響を与えたのではないかと推察しています。江藤淳は、この日記を「最後の所有の記録」と捉えています。竹西寛子は、この作品を「瑞々しさ」の点で評価しています。

主な収録刊行本

『十六歳の日記』は、『伊豆の踊子』をはじめとする多くの短編集や文庫に収録されています。また、全集にも収録されています。

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