南湖院

南湖院

概要

南湖院（なんこいん）は、明治後期から昭和中期にかけて神奈川県茅ヶ崎市に存在した著名な結核療養所、いわゆるサナトリウムです。医師である高田畊安（こうあん）によって1899年（明治32年）9月に開設され、その規模と設備から「東洋一」と称されるほどでした。最盛期には広大な敷地を有し、日本各地から多くの患者を受け入れましたが、1945年（昭和20年）5月、太平洋戦争末期に海軍によって接収され、その歴史に幕を閉じました。名称は地元の地名「南湖（なんご）」に由来しますが、創設者の高田畊安が濁音を避け「なんこいん」と名付けたとされます。

創設者 高田畊安

南湖院の創設者である高田畊安（1861-1945）は、丹後国（現在の京都府舞鶴市）の藩医の家に生まれました。医学を志し、京都医学校を経て1890年（明治23年）に帝国大学医学部を卒業後、ドイツ人医師ベルツの助手となりますが、自身も肺結核に罹患し、職を辞しました。この経験が、結核医療に専念する道を歩むきっかけとなります。1896年（明治29年）、東京神田に結核専門の診療所「東洋内科医院」を開設。そして、療養に適した環境を求めて、茅ヶ崎にその分院として南湖院を創設しました。敬虔なクリスチャンであり、勝海舟の孫を妻に迎えています。

沿革と発展

南湖院は1899年（明治32年）9月27日に第一病舎での受け入れを開始し、私立病院として認可を受けました。その後、順次病舎が増築され、規模を拡大していきます。1901年（明治34年）に第二病舎、1905年（明治38年）に第三病舎と増築が進み、最盛期の昭和10年代には敷地が5万坪あまり、病室数は158室に達しました。

その存在が広く知られるようになった一因に、作家・国木田独歩の入院があります。1908年（明治41年）に入院した独歩の病状が新聞に連載されたことで、南湖院と茅ヶ崎の療養地としての知名度が大きく向上しました。また、画家・奥村博史（平塚らいてうの事実婚の夫）のように、高田院長の厚意で絵と引き換えに入院費を相殺してもらった文化人もいました。

施設面では、病舎だけでなく、1918年（大正7年）には大会堂である医王堂、1914年（大正3年）には測候所なども設けられ、療養環境の充実に努めました。1923年（大正12年）の関東大震災では一部施設（第五病舎）が焼失しましたが、すぐに再建されています。震災時も多くの入院患者、付添人、職員が収容されていました。

思想と検閲

高田院長のクリスチャンとしての信仰は、南湖院の運営にも深く関わっていました。クリスマスは「医王祭」として盛大に行われ、医王（薬師如来）という言葉を用いつつも、キリスト教の教えを根幹としていました。

特に、南湖院の生活ガイドブックとして毎年発行された『南湖院一覧』では、高田院長の独自の思想が展開されていました。彼はイエス・キリストを「医蘇」と呼び、政治は天皇（神武）、宗教・倫理はイエス・キリストにある、とする「南湖院憲法」を掲載しました。これは、当時の国家神道（近代天皇制）が政治も神も天皇とする思想であったことに対し、宗教倫理の側面をイエスに委ねるという、検閲の厳しい時代においてぎりぎりの妥協を試みたものでした。しかし、この記述は内務省（特別高等警察を所管）によって「皇室ニ対シ不敬」と見なされ、1940年（昭和15年）と1942年（昭和17年）の二度にわたり発禁処分を受けました。

高田院長は太平洋戦争末期の1945年（昭和20年）2月、特高警察に出頭を求められた直後に体調を崩し、説教中に倒れて数日後に死去しました。そのわずか3ヶ月後、南湖院は海軍に全面接収され、解散に至りました。

閉鎖後と現在

南湖院の土地・建物は解散後、1946年（昭和21年）に連合国軍に接収され、1952年（昭和27年）からは在日米軍施設「キャンプ茅ヶ崎」の一部となりました。その後、1956年（昭和31年）に接収が解除されました。

現在、かつての南湖院があった場所は、県立茅ヶ崎西浜高校や有料老人ホーム「茅ヶ崎太陽の郷」などになっています。敷地の一部と、現存する第一病舎は2015年（平成27年）に茅ヶ崎市に寄付され、保存されています。富士山を背景にした第一病舎の風景は、「関東の富士見百景」にも選定されています。

関連情報

南湖院には国木田独歩のほか、尾竹紅吉、落合直文、八木重吉、坪田譲治、中里介山など、多くの著名な文人やその家族が入院・療養しました。また、田山花袋、山川方夫といった作家の作品や、萬鉄五郎の絵画にも南湖院が描かれています。当時の交通手段は人力車から小型バス、タクシーへと変化しました。

高田院長の思想は、当時の日本の思想状況や検閲制度を理解する上でも貴重な一例となっています。第一病舎は現在、地域の歴史遺産として保護・公開されています。また、当時の『南湖院一覧』などの資料からは、診療体制や料金体系といった詳細な運営状況を知ることができます。

もう一度検索