国を蹴った男

伊東潤による短編歴史小説であり、第34回（2013年）吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。また、同作を表題作とする短編小説集、そしてそれを原作とした漫画作品も存在します。

短編小説集に込められたテーマ

本作を含む短編小説集は、戦国時代を舞台にしながらも、一般的に語られることの多い「歴史の勝者」ではなく、光の当たることの少ない「敗者」や、時代に翻弄された名もなき人々に焦点を当てています。彼らの壮絶な生き様や、時には哀しい最期を深く掘り下げ、読者に歴史の新たな側面を提示します。羽柴秀吉、武田信玄、石田三成といった歴史上の有名人物も登場しますが、彼らはあくまで各短編の主人公たちの物語を引き立てる存在として描かれ、物語の中心には世間にはあまり広く知られていない多様な人物たちが据えられています。

表題作「国を蹴った男」の物語

物語は、京で修業を積んだ毬職人の五助を中心に展開します。その技量は師匠をも凌ぐほどでしたが、師匠は正妻の子ではない息子に工房を継がせることを決め、五助は居場所を失います。彼は商人の宗兵衛のつてで、駿河の戦国大名、今川氏真に仕えることとなります。

五助は当初、家臣たちから顧みられることの少ない氏真に仕えることに戸惑いを感じますが、ある時、彼の蹴鞠にかける情熱と並外れた才能を目の当たりにし、深く感銘を受けます。二人は蹴鞠を通して身分を超えた強い信頼関係を築き上げ、今川家が武田信玄によって駿河を失い、氏真が落ちぶれて浪々の身となった後も、五助は彼に付き従い傍に仕え続けました。

徳川家康の庇護のもと、妻子とともにひっそりと暮らしていた氏真ですが、天正3年（1575年）、運命的な機会が訪れます。織田信長の命により、氏真は五助を伴って京へ上り、信長の前で蹴鞠を披露することになったのです。

その最中、かつて五助を氏真に引き合わせた商人、宗兵衛が接触してきます。宗兵衛は石山本願寺に身を寄せる五助の妻子を人質に取り、爆薬を仕込んだ鞠を用いて信長を暗殺する計画を持ちかけます。通常の鞠より遥かに重い爆薬入りの鞠であっても、氏真の並外れた技量ならば難なく蹴り上げられるだろうと踏んでいたのです。

天正3年3月20日、相国寺で蹴鞠の催しが開かれました。公家の間で蹴鞠の名門として知られる飛鳥井家の者たちからも、氏真はその卓越した腕前を絶賛されます。会の終盤には、信長自らもプレイヤーとして参加。羽柴秀吉、徳川家康、そして氏真と共に4人で鞠を蹴ることになります。

五助から手渡された鞠を氏真が高く宙に蹴り上げると、それを受けようとした信長は、想像以上の重さに体勢を崩してしまいます。不審に思った周囲によって五助は取り押さえられますが、調べられた鞠の中身は爆薬ではなく、ただ大量の大麦が詰められた異常に重い鞠であったことが判明します。重い鞠を軽々と蹴り上げた氏真の技量に皆が感心する一方、信長は「これでは蹴れぬ」と、五助に通常の鞠と交換するよう命じ、事なきを得たまま蹴鞠は続けられました。

暗殺計画が未遂に終わったことを知った宗兵衛は、その夜、五助を厳しく問い詰めます。五助は苦悩の末、氏真の命を救うことを選んでいたのです。彼は、妻子のいる石山本願寺が一向宗の拠点であり、同じ門徒である宗兵衛が妻子に危害を加えることはないだろうと考えたのでした。しかし、計画失敗の責任を問われることを覚悟し、五助はその夜のうちに人知れず姿を消しました。

今川氏真はその後も波乱の時代を生き延び、大坂冬の陣が勃発した慶長19年（1614年）にその生涯を閉じたとされています。

収録されている他の作品

短編小説集には、表題作のほか、以下の作品が収められています。

牢人大将：上杉景虎に城を追われ、武田信玄に仕えた牢人衆の大将、那波無理之介が恩賞を求めず、ただ戦に生きる姿を描きます。
戦は算術に候：算術の才能で豊臣秀吉に重用された長束正家が、「道具」として扱われることへの葛藤を抱えながら生きる物語です。
短慮なり名左衛門：上杉謙信、そして上杉景勝のために数々の功績を挙げながら、報われることのなかった武士、毛利名左衛門の不器用な生き様を描きます。
毒蛾の舞：賤ヶ岳の戦いを前に、柴田勝家勢にいる佐久間盛政のもとを訪れた前田利家の妻まつが、夫の立身出世を願う切なる思いを描きます。
天に唾して：堺の商家に生まれながら茶の湯に没頭し、千利休の弟子となるも豊臣秀吉に反抗し、波乱の生涯を送った山上宗二の物語です。

書誌情報

単行本：伊東潤『国を蹴った男』講談社より2012年に刊行されました。ISBN 978-4062179911。
講談社文庫：単行本に加筆修正が加えられた文庫版が、講談社より2015年に刊行されています。ISBN 978-4062931151。

漫画作品について

幾花にいろによる作画で漫画化されており、『月刊ミステリーボニータ』（秋田書店）にて2022年8月号から2025年1月号まで全15話が連載されました。コミックスは全2巻（上下巻）として、2025年3月18日に同時発売されています。

コミックス：
伊東潤（原作）、幾花にいろ（漫画）『国を蹴った男』上、秋田書店、2025年。ISBN 978-4253302081。
伊東潤（原作）、幾花にいろ（漫画）『国を蹴った男』下、秋田書店、2025年。ISBN 978-4253302098。

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