天狗攫い

天狗攫い（てんぐさらい）

「天狗攫い」とは、日本の民俗信仰における神隠しの一種で、特に江戸時代において、子どもが天狗によってどこかへ連れ去られる現象を指しました。「天狗隠し」とも呼ばれます。

概要

江戸時代の人々は、子どもが突然姿を消す原因として、山に棲むとされる天狗の仕業だと考えることが少なくありませんでした。この俗信によれば、天狗は子どもをさらい、人里離れた場所や異界へ連れて行くものの、数ヶ月から数年を経て元の家やその近くに戻すことがあるとされていました。

天狗攫いから無事に帰ってきたとされる子どもたちは、天狗と一緒に空を飛んで日本各地の有名な場所を見物させてもらった、あるいは天狗から様々な知識や特別な術を教わったなどと、その不思議な体験を語りました。彼らの話の中には、当時の人々が容易に知り得ないような遠方の地理や詳細な事柄が含まれることがあり、それが彼らの証言に信憑性を与え、語り部や聞き手の間で真実として受け入れられる一因となりました。

また、各地には天狗にまつわる興味深い俗信が伝わっています。例えば、長野県の一部地域では、天狗が出没すると噂される場所を通る際に「鯖食った、鯖食った」と唱えると、天狗による災難を避けられると言われました。これは、天狗が鯖を嫌うという伝承に基づいているとされています。他にも、山で行方不明になった人を捜す際に、「鯖食った、〇〇（名前）」と呼びかけると戻ってくるという話も存在します。

天狗攫いの事例として特に知られているのは、文政年間に「天狗小僧」と呼ばれた江戸の少年、寅吉です。彼は7歳の時に行方不明となり、数年後の文政3年（1820年）に江戸へ戻ってきました。寅吉が語った異界での体験談は、国学者である平田篤胤の関心を引き、彼の著書『仙境異聞』を執筆する上で重要な情報源となりました。

民話との関連

天狗に関する民話の中には、人間が天狗を騙して特別な道具を手に入れる話があります。有名なものとして、若者が木の筒を覗かせながら「江戸が見える、大阪が見える」と天狗の好奇心を煽り、それと引き換えに天狗の持つ「隠れ蓑笠」（身につけると姿が消えるという力を持つ）を騙し取る物語があります。この話は、妖怪との問答で知恵比べをし、負ければ食べられてしまうという「化け物問答」型の民話に分類されます。この民話に登場する、隠れ蓑笠を手に入れて怠けたり酒を飲んだりする若者は、どことなく子どもっぽく描かれています。また、蓑を身にまとう存在は、秋田県のナマハゲに見られるように、古来より異なる世界、すなわち常世（とこよ）からの来訪者を象徴すると解釈されることがあります。これらのことから、蓑をまとった天狗と人間が知恵比べをする物語は、異界と現実、そして神隠しというテーマと関連付けられることがあります。

神隠しの裏側？

天狗攫いは、単なる超常現象としてだけでなく、当時の社会が抱えていた問題の反映である可能性も指摘されています。人見蕉雨の『黒甜瑣語』（1795年）には、当時、神隠しに遭って帰還した少年や男性が「天狗の情朗（じょうろう）」と呼ばれていたという記述が見られます。「情朗」は「陰間（かげま）」とも呼ばれ、これは当時の男色の対象となる少年や若い男性を指す言葉でした。このことから、神隠しが、性的な目的で誘拐された被害者を指す隠語として使われていた、あるいはそう認識されていた可能性が示唆されます。この認識は広く浸透していたようで、平田篤胤も寅吉に対し、天狗の世界に男色の風習があったかどうかを尋ねています。寅吉は、自分が修行した山にはそのような風習はなかったと答えたと伝えられています。

民俗学者の柳田國男は、著書『天狗の話』の中で、天狗攫いの実態は、悪質な修験者や山に暮らす人々が、性的欲求を満たすために人里から美少年を拉致していた事例を覆い隠すための俗信であった可能性を推測しています。

天狗攫いは、現代においては理解しがたい現象ですが、江戸時代の人々の世界観、子どもの失踪に対する不安、そして社会の暗部をも映し出した、日本の民俗文化における興味深い一側面と言えるでしょう。

関連項目

能の演目である「花月」は、世阿弥の時代（14世紀頃）に作られたとされ、天狗による神隠しを題材としています。

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