尋常小学算術

概要

尋常小学算術（じんじょうしょうがくさんじゅつ）は、昭和初期にあたる1935年から1940年にかけて、当時の文部省によって発行された尋常小学校で使用された国定算術教科書です。

この教科書が編纂される以前に用いられていた算術書は、明治期からの改訂を経たものでしたが、児童にとって理解し習得することが極めて難しい内容を含んでいました。例えば、計算に登場する桁数が大きすぎるなど、実際の教育現場からはその困難さが指摘されていました。こうした状況を改善し、より児童の発達段階に即した算術教育を実現するために、新しい国定教科書として「尋常小学算術」は誕生しました。

その編纂は、塩野直道氏らを中心とするメンバーによって進められました。

画期的な特徴

「尋常小学算術」は、それまでの算術教科書には見られなかった、いくつかの画期的な試みを導入しました。

まず、児童の理解を促すための工夫として、特に小学校1学年の前半部分において、説明文による解説を排し、絵図のみを用いて内容を提示する構成を採用しました。これにより、言葉に頼らず、視覚的に算数の概念を捉えることを目指しました。

また、当時の算術教育において重要な位置を占めていた珠算指導においても新しい取り組みが行われました。従来一般的だった五つ珠のそろばんではなく、現代のそろばんにも通じる四つ珠のそろばんを初めて採用した教科書とされています。これは、そろばんの指導法や普及において大きな影響を与えました。

本書の内容と構成は、国内外で高く評価されました。特に、1936年にノルウェーのオスロで開催された国際数学者会議では、日本の算術教育における革新的な試みとして絶賛を浴びたと伝えられています。

教科書としての寿命と内容の特徴

「尋常小学算術」は、教育史において比較的使用期間が短い教科書となりました。

その主な理由は、教育制度の大きな変更にあります。1941年、国民学校令の施行に伴い、従来の小学校は国民学校へと改組されました。これに合わせて教育課程全体が見直され、算術という科目名も「算数」へと変更されました。新しい国民学校用の教科書として、『カズノホン』（低学年向け）や『初等科算数』（高学年向け）が新たに編纂され、「尋常小学算術」はその役割を終え、教科書としての歴史に幕を閉じることになったのです。

現代の小学校で使用されている算数教科書と比較すると、「尋常小学算術」の基本的な計算方法や単元構成には共通する部分も多く、大きく異ならないように見えるかもしれません。

しかし、当時の社会情勢や教育観を反映した特徴も持ち合わせています。例えば、小学6年生向けの教材には、「橿原神宮」や「直接有価証券投資」といった、現代の小学校ではまず扱われないであろう固有名詞ややや専門的な語句が登場します。さらに注目すべき点として、これらの語句には、児童向けの教科書であるにもかかわらず、ルビ（ふりがな）が全く振られていない箇所が存在します。これは、当時の教育における漢字習得の期待水準や、特定の知識・教養に対する考え方の一端を示すものと言えるでしょう。

構成と現在の入手状況

「尋常小学算術」の構成としては、児童用の教科書は各学年が上巻と下巻に分かれており、全12冊から成るシリーズでした。児童用だけでなく、指導者向けの教師用書ももちろん存在しました。

現在、この歴史的な教科書に触れる機会は複数あります。

まず、教育図書を扱う出版社である啓林館から、当時の姿をそのままに再現した復刻版が出版されています。これにより、現代でも当時の教科書の内容や装丁を知ることができます。

また、「尋常小学算術」の原著は、著作権の保護期間が満了し、パブリックドメインとなっています。そのため、国立国会図書館のデジタルコレクションをはじめとする一部のウェブサイトでは、その内容を収めたPDFファイルが公開されており、誰でも自由に閲覧・入手することが可能です。これは、教育史や算数教育に関心を持つ人々にとって、貴重な資料となっています。

「尋常小学算術」は、日本の近代算数教育の発展段階において、従来の困難さを克服し、児童中心の視点を取り入れようとした意欲的な試みを示す教科書であり、短い期間ながらもその後の教育に影響を与えた歴史的な存在と言えます。

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