小笠原壱岐守

『小笠原壱岐守』（おがさわらいきのかみ）は、作家・佐々木味津三が1931年（昭和6年）に発表した歴史小説、およびそれを原作として1932年（昭和7年）に製作・公開された日本のサイレント映画である。江戸時代末期、幕府の老中として激動の時代を生きた実在の人物、小笠原長行をモデルに、その困難な政治決断とそれに伴う苦悩を描いている。

小説版

小説『小笠原壱岐守』は、1931年4月から12月にかけて大衆文芸雑誌『オール讀物』に連載された後、翌1932年に東京の出版社である柳書房から単行本として刊行された。現在、この小説はインターネット上の電子図書館である青空文庫には収録されていない。

映画版

映画『小笠原壱岐守』は、時代劇の名匠として知られる山中貞雄が監督を務め、当時人気を博していた嵐寛寿郎プロダクション（通称：寛プロ）が製作、そして寛プロを主宰するスター俳優・嵐寛寿郎が主演した長編劇映画である。当時の日本映画界ではまだサイレント映画が主流であり、本作も無声映画として製作された。

製作経緯と興行結果

本作は当初、別の監督である仁科熊彦がメガホンを取る予定だったが、仁科監督が突然姿を消したため、急遽山中貞雄が代役として監督することになった。当時の山中監督は、それまでの監督作品が興行的に成功しておらず、また本作の企画自体も彼自身が積極的に望んだものではなかったと言われている。

一方、製作側の寛プロは、本作を社の総力を挙げた一大プロジェクトと位置づけ、「寛プロ全力投球」と銘打って大規模な宣伝活動を展開した。主題歌の募集など、異例のプロモーションも行われた。主演の嵐寛寿郎自身も、作品の出来栄えには自信を持っていたとされる。

しかし、その努力にもかかわらず、映画の興行成績は極めて厳しいものとなった。初日の初回上映の観客がわずか5人という記録的な不入りに終わり、多くの映画館で早期の上映打ち切りが相次いだ。当時の映画評論でも「失敗作」と酷評され、わずか4日間で上映が終わったという記録も残っている。

この興行失敗は、当時まだ若手だった山中監督に大きな精神的打撃を与え、後の寛プロ退社の要因の一つになったと言われている。当時の映画批評界には、寛プロ作品を一段低く見る傾向があり、本作も正当な評価を受けられなかった可能性が指摘されている。一方、主演の嵐寛寿郎は後年、本作について「作品の出来は最高だった」「興行価値は十分あった」と振り返り、興行不振の原因は作品内容ではなく、宣伝の方向性（「芸術大作」としての打ち出し方）にあったのではないかとの見方を示している。

あらすじ

物語の舞台は文久2年（1862年）12月。薩摩藩主島津久光の行列が横浜近くの生麦村を通行中、行列を横切った外国人3名が藩士によって殺傷される生麦事件が発生する。イギリス公使館は日本に対し、巨額の賠償金支払いを要求。幕府内ではこの難題を巡り、開国派と攘夷派の間で激しい議論が巻き起こる。攘夷論を唱える水戸藩主徳川斉昭の強い反対や、将軍徳川家茂の苦悩が深まる中、時の幕府老中格・小笠原壱岐守長行は、周囲の反対を押し切って独断で賠償金の支払いを決定する。

この決定が江戸に伝わると、攘夷派を中心に壱岐守への激しい非難が巻き起こり、「売国奴」と罵られる。ついに水戸藩を黒幕とする攘夷派の決死隊が組織され、横浜のイギリス公使館を焼き討ちする事件が勃発する。

国家の存亡に関わる危機の中、壱岐守長行は一貫して非戦論を主張し、あくまで平和的な外交交渉によって生麦事件の解決を図る。しかし、その行動は朝廷の攘夷方針に反する違勅の罪に問われ、四面楚歌の状況に追い込まれる。孤立無援となった壱岐守は、ついに京都郊外の興正寺への蟄居謹慎を命じられるという結末を迎える。

現存状況

映画『小笠原壱岐守』は、現在その全容を鑑賞することが極めて困難な「幻の映画」となっている。東京国立近代美術館フィルムセンターには、本作のフィルム断片がわずか52フィート（約16メートル、上映時間換算で約35秒）のみ所蔵されている。完全なフィルムは失われていると考えられている。

ただし、1986年に刊行された『山中貞雄作品集別巻』には、本作のシナリオが部分的に採録されており、失われた作品の一端を知る手がかりとなっている。

スタッフ・キャスト・関連文献

スタッフ・作品データ

監督・脚本: 山中貞雄
原作: 佐々木味津三
撮影: 藤井春美
上映時間（公称）: 107分（13巻 / 2,941メートル）
形式: 白黒、スタンダードサイズ（アスペクト比 1.33:1）、サイレント映画
初回興行: 浅草・常盤座

主なキャスト

小笠原壱岐守長行 / 有賀源五左衛門: 嵐寛寿郎（二役）
山内容堂: 嵐徳三郎
一ツ橋慶喜: 嵐璃徳
小栗上野介: 市川寿三郎
水戸中納言: 玉島愛造
松平容保: 今成平九郎
比留間六郎太: 春日清
進藤武兵衛: 春路謙作
壱岐守用人・洋助: 頭山桂之助
壱岐守家臣・村瀬文輔: 菊本久夫
その他: 嵐橘右衛門、尾上紋弥、徳川邦彦、嵐寛三郎、嵐寿三郎、松本竜三郎、嵐寛二郎、沢一男、嵐寿之助、歌川八重子

関連文献（ビブリオグラフィより）

小説『小笠原壱岐守』（柳書房、1932年）
『佐々木味津三全集第10巻』（平凡社、1934年）
小説『小笠原壱岐守』（講談社、シリーズ大衆文学館、1997年） ISBN 4062620723
* 『山中貞雄作品集別巻』（監修佐藤忠男・加藤泰、実業之日本社、1986年） ISBN 4408100439 - シナリオ部分採録

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