山王霊験記

山王霊験記：日吉山王信仰を描いた絵巻物の謎

「山王霊験記」は、日吉大社の縁起や山王信仰の霊験を絵画で描いた絵巻物です。現在、沼津日枝神社、比叡山延暦寺、和泉市久保惣記念美術館、兵庫県立美術館、細見美術館にそれぞれ所蔵作品があり、いずれも国宝または重要文化財に指定されています。しかし、これらの絵巻物は全て写本であり、原本は現存していません。

その存在を知る手がかりは、戦国時代の公卿、山科言継の日記『言継卿記』にあります。同書には「山王縁起十五巻」「日吉社縁起十五巻」「日吉霊験絵」といった記述が登場しますが、具体的な内容は断片的です。天文19年（1550年）の記述からは、当時、比叡山延暦寺に15巻からなる絵巻物が存在し、後奈良天皇も閲覧していたことがわかります。日記には、この絵巻物が複数の場所に運ばれ、閲覧された様子が克明に記録されています。

現存する「山王霊験記」は大きく2つの系統に分けられます。

1. 鎌倉時代の系統（沼津日枝神社本）： 沼津日枝神社に所蔵されているこの絵巻物は、鎌倉時代に成立したと推測されています。日枝神社の創始に関する縁起物語が中心で、関白藤原師通が日吉山王の怒りを買って急死したという逸話が特に詳しく描かれています。絵巻には、神罰を受けた武士や体調を崩す師通の姿などが描かれ、当時の社会情勢を垣間見ることができます。

2. 室町時代の系統（山門僧伝）： 比叡山延暦寺（旧生源寺本）、和泉市久保惣記念美術館（旧蓮華寺本）、兵庫県立美術館（旧井上家本、旧頴川美術館蔵）、細見美術館所蔵の絵巻物は、室町時代の作品と考えられています。これらの絵巻物は、比叡山（山門）ゆかりの僧侶たちの伝記を中心に、日吉山王の霊験を物語る内容となっています。そのため「山門僧伝」とも呼ばれています。

共通の特徴として、白い線で縁取られた青い霞が描かれている点が挙げられます。蓮華寺本以下の諸本は、寂済または土佐光信の筆と伝えられており、室町時代特有の硬質な描線や形式化された表現技法が用いられています。各絵巻物の内容は様々です。例えば、船難に遭った子供が猿に育てられた話（和泉市久保惣記念美術館本）、蜂の託宣を受けた僧侶の話（兵庫県立美術館本）、宋への航海や地獄からの救済の話（細見美術館本）など、多様な霊験譚が描かれています。

他にも、『日吉山王利生記』（9巻）や『山王絵詞』（15巻）といった、詞書のみが現存する作品も知られています。これらの作品も、「山王霊験記」全体の理解には欠かせない資料と言えます。

「山王霊験記」は、単なる宗教絵画という枠を超え、中世社会の信仰、美術、歴史を知る上で貴重な資料となっています。複数の版本が存在すること、そして、その内容が時代や地域によって異なっていることからも、この絵巻物が中世の人々に広く愛され、様々な形で伝承されてきたことが分かります。今後の研究によって、さらに多くのことが明らかになることが期待されます。

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