折たく柴の記

『折たく柴の記』は、江戸時代中期を代表する学者・新井白石が著した貴重な随筆です。享保元年（1716年）頃成立したとされ、全3巻3冊からなるこの作品は、単なる歴史記録にとどまらず、白石自身の内面や時代背景を深く理解できる貴重な資料となっています。

この書は、大きく三つの部分から構成されています。上巻では、白石自身のルーツである祖父母や両親の生涯、そして彼自身の生い立ちから甲府徳川家への出仕に至るまでの道のりが克明に綴られています。幼少期から青年期にかけての出来事、周囲の人物との交流、そして彼自身の心情が赤裸々に描写されており、歴史資料としてはもちろん、人間新井白石を知る上で非常に重要な部分となっています。

中巻と下巻では、幕府政治に深く関わった白石の経験が中心となります。徳川家宣、家継両将軍の治世における政治的動向、その過程で白石自身が果たした役割などが詳細に記述されています。正徳の治といった重要な政策決定の裏側や、当時の政治家たちの思惑、様々な出来事への白石自身の見解などが読み取れるため、江戸時代中期における政治史を理解する上で極めて重要な史料と言えます。特に、白石が中心となって編纂した『藩翰譜』の作成過程についても触れられており、その苦労や困難、そしてその意義について知ることができます。

『折たく柴の記』という書名は、後鳥羽天皇の和歌「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」に由来するとされています。この和歌が示す、過ぎ去った日々への郷愁や、大切な思い出を惜しむ気持ちは、回顧録である本書の主題と見事に重なります。また、白石自身は書名について言及していませんが、序文にある「外ざまの人の見るべきものにもあらねば、ことばのつたなきをも、事のわづらはしきをも、えらぶべしやは」という言葉からもわかるように、当初は私的な記録として書かれたものであったと考えられます。そのため、書中には飾らない率直な表現が多く見られ、白石の人となりや、当時の社会状況をありのままに伝えています。

現在では、新井家に伝わる自筆本をはじめ、いくつかの写本が現存しており、歴史研究において重要な一次史料として活用されています。さらに、日記文学としての文学性も高く評価されており、歴史学のみならず文学研究においても注目を集めています。時代背景や人物描写、そして白石自身の内面世界までを深く掘り下げたこの作品は、単なる歴史書としてだけでなく、人間ドラマとしての魅力も兼ね備えていると言えるでしょう。

近年では、現代語訳や英訳も出版されており、より多くの人々がこの貴重な歴史文献に触れる機会を得ています。岩波書店、中公クラシックス、東京大学出版会など、複数の出版社から刊行されていることからも、その重要性と人気ぶりがうかがえます。これらの現代語訳や英訳を通して、私たちは過去の人々の生き方や考え方に触れ、現代社会をより深く理解する一助とすることができるでしょう。 『折たく柴の記』は、歴史を学び、過去と現在を繋ぐ架け橋となる、極めて重要な文献なのです。

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