時の娘

時の娘（The Daughter of Time）

ジョセフィン・テイによって1951年に発表された長編推理小説『時の娘』は、グラント警部シリーズの一作であり、歴史ミステリーの傑作として知られています。この作品は、ベッドに寝たきりの探偵が過去の謎に挑むという、ユニークな設定が特徴です。

物語のあらすじ

物語は、ロンドン警視庁のアラン・グラント警部が、犯人追跡中に足を骨折し、入院生活を送るところから始まります。退屈を持て余すグラントに、女優の友人マータが歴史上のミステリーを解くことを提案します。グラントは、人の顔から性格を見抜くことに自信を持っており、マータが持参した歴史上の人物の肖像画の中から、悪名高いリチャード3世の肖像に目が留まります。

リチャード3世は、シェイクスピアの戯曲にも登場する「稀代の悪王」として知られています。彼は、せむしで醜悪な容貌を持ち、狡猾な策略で王位を簒奪し、2人の幼い甥をロンドン塔に幽閉して殺害したとされています。しかし、グラントはリチャード3世の肖像画から、良心的で責任感のある人物という印象を受け、この悪評に疑問を抱きます。

グラントは、大英博物館の歴史研究者ブレント・キャラダインの協力を得て、数週間にわたり史料を調べ、リチャード3世の生涯と「塔の王子殺し」の容疑を検証します。調査を進めるにつれ、リチャード3世に対するこれまでの評価は、彼を倒したチューダー朝によって不当に作られたものであるという結論に達します。

タイトル「時の娘」の意味

タイトルの『時の娘』は、「真実は時の娘」（Truth is the daughter of time）というフレーズに由来します。これは、「真実は時間が経てば明らかになる」という意味を表しています。このフレーズは、様々な文献にも登場し、古くはアウルス・ゲッリウスの『アッティカ夜話』にも見られます。作品のテーマを象徴する言葉として、重要な役割を果たしています。

作品のテーマ

この小説は、「歴史がいかに作られるのか」という問いを投げかけています。広く信じられている「歴史的な神話」も、確かな証拠がないまま作られている可能性があることを示唆します。リチャード3世の例では、勝者であるチューダー朝によって歪曲された歴史が流布し、それが人々の感情に訴えかけ、歴史的不正義を生み出していると指摘します。この作品では、歴史叙述の多様な側面をパスティーシュとして描き、読者に歴史に対する批判的な視点を持つことを促します。

また、人相学（容貌から性格を判断する学問）にも言及し、グラントがリチャード3世の肖像画から得た印象が、彼の調査の動機となる点が特徴です。作者テイは、容貌が性格の信頼できる手がかりになると考えており、この作品でもその考えが反映されています。

リチャード3世擁護論

この作品は、リチャード3世の名誉回復を試みる「リカーディアン」と呼ばれる歴史愛好家たちの主張に基づいています。特に「塔の王子たち」の殺害疑惑に焦点を当て、リチャード3世に殺害の動機も証拠もないと主張しています。

主な論点は以下の通りです。

リチャード3世は合法的に王位を継承しており、王子を殺害する政治的メリットがない。
ヘンリー7世がロンドン塔を掌握した時点で、王子たちの行方不明は確認されていない。
ヘンリー7世はリチャード3世の公権を剥奪したが、王子殺害については言及していない。
王子たちの母エリザベス・ウッドヴィルは、リチャード3世と良好な関係を保っていた。
* 王子たちはむしろ、ヘンリー7世にとって王位継承の脅威であった。

作中では、トマス・モアが書いたとされる『リチャード3世伝』は、実際にはジョン・モートンが書いたものをモアが写本したものではないかという仮説も提示されています。そして、グラントとキャラダインは、王子たちはリチャード3世ではなく、ヘンリー7世によって殺害されたという結論に至ります。

文学的な影響と批評

『時の娘』は、出版当時から高い評価を受け、推理小説の古典として認められています。英国推理作家協会が選ぶ「史上最高の推理小説100冊」では第一位に選ばれました。ウィンストン・チャーチルも、歴史に関する論争を引き起こすユニークな作品だと評価しています。

しかし、一方で、この作品の論拠には批判もあります。特に、アリソン・ウィアーは、テイが当時未発見だった史料を考慮に入れていないことを指摘しています。また、ジュリアン・シモンズは、キャラダインが過去の無罪論を調査の終盤で知る不自然さを指摘しています。

同じテーマを扱った作品

エリザベス・ピーターズの『リチャード3世「殺人」事件』は、この作品に言及しています。また、コリン・デクスターの『オックスフォード運河の殺人』は、入院中の警察官が歴史ミステリーを解くというプロットを共有しています。日本では、高木彬光の『成吉思汗の秘密』などが、ベッド・ディテクティヴによる歴史ミステリーとして影響を受けています。

『時の娘』は、歴史ミステリーの枠を超え、歴史の解釈や真実とは何かという普遍的な問いを私たちに投げかける、重要な作品です。

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