森本一房

森本一房

江戸時代前期に、現在の長崎県にあたる肥前国平戸藩に仕えた武士、森本一房（もりもと かずふさ）は、加藤清正の重臣として知られる森本一久（儀太夫）の次男にあたり、右近太夫と称しました。彼の生涯で特筆されるのは、鎖国体制が確立される直前の時期に、遠く東南アジア、現在のカンボジアへの渡航を果たしたことです。

一房がカンボジアへ旅立ったのは、寛永9年（1632年）のこと。当時の日本からは、「南天竺」などと呼ばれていました。この渡航の背景には、父である森本一久の現世での幸せを願い、そしてすでに亡くなっていた母の後世の菩提を弔うという、深い信仰心と家族への思いがありました。彼が目指したのは、アンコール・ワットです。当時の日本人には、インドにある仏教の聖地、祇園精舎であると考えられていました。

アンコール・ワットに到着した一房は、回廊の一角にある柱に自らの参詣の証として墨書を残しました。この墨書は、現在も現地に残されており、彼が「生国は日本、肥州の住人 藤原朝臣 森本右近太夫 一房」であること、数千里の海の旅を経てこの聖地に来たこと、そして父・儀太夫一吉と亡母・明信大姉のために仏像四体を奉納したことなどが記されています。この墨書は、当時の日本人がアンコール・ワットを訪れていたことを示す貴重な史料となっていますが、現在は上から墨で塗りつぶされ、判読が困難な状態です。

カンボジアへ渡る前、一房は加藤家を離れていました。主君であった加藤清正の死後、その跡を継いだ忠広の下で家臣団に混乱が生じたことに嫌気がさし、肥前国の松浦氏に仕えたと伝えられています。松浦氏の領地には国際貿易港として栄えていた平戸があり、一房は恐らく、松浦氏に関係する朱印船に乗って日本への帰途についたと考えられています。

帰国後、ほどなくして江戸幕府による「鎖国」政策が強化され、日本人の東南アジア方面への往来は禁止されることとなります。このため、帰国後の一房の正確な消息は長い間明らかではありませんでした。しかし、その後の調査により、彼は松浦藩を辞した後、父一久の生誕地とされる京都の山崎に移り住んでいたことが判明しています。

一房は延宝2年3月28日（グレゴリオ暦1674年5月3日）に京都でその生涯を終えました。墓は、父一久（慶安4年、1651年没）とともに京都の乗願寺にあります。

森本一房のアンコール行を伝える史料としては、アンコール・ワットに残された自身の墨書が最も直接的なものですが、他にもいくつかの記録や関連情報が存在します。水戸徳川家に伝わる「祇園精舎図」は、彼が描いたものではないかという説があります。また、江戸時代後期の平戸藩主、松浦静山によって書かれた随筆『甲子夜話』にも、一房のアンコール渡航と思われる記述が見られます。

後世においても、一房とその珍しい海外渡航は注目され続けています。彼を祖先とする森本慶三氏が岡山県津山市に設立した「つやま自然のふしぎ館」に付設されている「歴史民俗館」には、森本一房を紹介するコーナーが設けられています。さらに、彼の生涯やアンコール行は、研究者の興味を引きつけ、多くの研究文献で論じられています。小説などフィクション作品の題材とされることもありますが、その内容は史実から大きく離れている場合もあります。森本一房は、鎖国前夜の激動の時代に、自身の信仰心や家族への思いから遠い異国の地を目指した、数少ない日本人の一人として、その名を歴史に刻んでいます。

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