歌行燈

『歌行燈』は、1910年（明治43年）1月に泉鏡花によって発表された小説です。能楽の世界を背景に、破滅的な運命を辿る主人公・恩地喜多八と、芸者お三重の悲恋を描いた作品として知られています。

喜多八は名家・能のシテ方宗家の甥でしたが、謡の腕比べで師匠の宗山を自殺に追い込み、勘当されてしまいます。宗山には娘のお三重がおり、父親の死後、彼女は芸者として生計を立てていました。肺を患い、世を彷徨う喜多八は、偶然お三重と再会します。かつての栄光を捨て、二度と能を演じないと誓っていた喜多八でしたが、お三重への思いから禁令を破り、彼女に舞と謡を教えるようになります。

物語は、喜多八の伯父の前でお三重が能『海人』（観世流では『海士』）の「玉之段」を舞う場面がクライマックスとなります。この場面は、鏡花の深い能への造詣が存分に発揮された、作品随一の美しいシーンとして知られています。静寂な夜空の下、鼓と謡、舞の調べが響き渡り、海原の情景が鮮やかに描写されています。お三重の舞は、喜多八の過去の罪と後悔、そして二人の儚い恋を象徴するかのような、感動的なシーンとなっています。

鏡花は、能楽に造詣が深く、その知識と繊細な描写が『歌行燈』の大きな魅力となっています。物語全体を彩る幻想的な雰囲気、そして能の要素を取り入れた表現は、独特の美意識と世界観を創り出しています。深夜の能舞台を舞台とした物語は、静謐な美しさの中に、切ない恋と、主人公の宿命的な悲劇が描き出され、読者に深い感動を与えます。

『歌行燈』は、1943年に成瀬巳喜男監督、花柳章太郎と山田五十鈴主演で映画化され、1960年には衣笠貞之助監督、市川雷蔵と山[[本富士子]]主演で再び映画化されました。これらの映画化は、小説の世界観を映像によって再現し、多くの人々に作品の魅力を伝えています。

三重県桑名市の船津屋旅館には、『歌行燈』の句碑が建てられており、鏡花がこの作品を執筆した場所であることを示しています。また、能楽師の瀬尾要や、鏡花の従兄弟である松本長が、喜多八のモデルとして挙げられるなど、作品には現実の能楽界との関わりも見られます。

『歌行燈』は、泉鏡花の代表作の一つとして、今日でも多くの読者に愛され続けている作品です。その魅力は、深い悲劇性と美しい描写、そして能楽の世界を背景とした独特の雰囲気にあります。日本の近代文学史における重要な作品として、これからも多くの人々に読み継がれていくことでしょう。

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