玉井喜作

玉井 喜作（たまい きさく）は、慶応2年（1866年）に周防国（現・山口県光市）の造り酒屋に生まれ、明治期にジャーナリスト、教育家、そして稀代の冒険家として名を馳せた人物です。

若き日々からドイツへの志

幼少期を郷里で過ごした後、山口や広島で学問を修め、上京して獨逸学協会学校に入学。幼い頃から兄のように慕っていた遠縁の原田貞介（後に土木学会会長）からドイツ語の手ほどきを受けるなど、早くからドイツへの関心を深めました。1882年、16歳で帝国大学医学部予備門に最年少で合格。その頃から級友の間で頭角を現し、下宿には南方熊楠ら多くの若者が集まるようになります。しかし、旺盛な交際による出費がかさみ、わずか1年で予備門を除籍されてしまいます。それでも非公式に講義に出席し続けるなど、その向学心は衰えませんでした。

1884年には、幼なじみであり原田貞介の分家筋にあたる原田エツと結婚。やがて原田貞介がドイツへ留学したことに触発され、玉井自身もドイツ行きを強く意識するようになります。資金調達のため、西野文太郎らと協力してドイツ語学習塾「東京速成学館」を開設。当時のドイツ語学習熱を背景に多くの生徒を集め、一定の成功を収めましたが、医学の道に疑問を感じ始めていた玉井は、1886年に第一高等中学校ドイツ法律科に編入しました。

札幌農学校教授からシベリア横断へ

1888年、予備門時代の教授らの推薦を受け、札幌農学校（現・北海道大学）にドイツ語教授として赴任。新渡戸稲造や松村松年といった錚々たる同僚と親交を深めましたが、田園での暮らしを夢見て1891年に退職し、札幌郊外で農業を始めます。しかしこの試みは失敗に終わり、これを機にドイツへ渡ることを決意しました。

1892年11月、玉井は妻子を郷里に残し、単身日本を発ちます。目指すはドイツですが、潤沢な資金がなかった玉井は、日露貿易の調査を名目としつつ、道中で費用を稼ぎながらシベリアを横断するという壮大な計画を実行に移します。下関から釜山を経てロシアのウラジオストクへ渡った玉井は、冤罪で投獄されるなどの苦難に見舞われつつも、約半年間滞在して旅費を貯めました。

1893年5月、ウラジオストクを出発した玉井は、アムール川を遡上し、ブラゴヴェシチェンスクなどで働きながら西進します。多くの区間では、当時の主要交易路であった茶を運ぶキャラバンに同行しました。しかし、イルクーツクに到着した頃には資金が尽き、慣れない旅の疲れから重度の痔を患い、一時は旅の続行が危ぶまれる事態に陥ります。ここで、かつての東京速成学館の生徒であった椎名保之助と奇跡的に再会し、その支援を得て旅を続けることができました。

イルクーツクからトムスクまでの道のりは特に過酷でした。極寒期（氷点下40℃前後）に茶のキャラバンに同行したため、外套が凍りつくほどの寒さに耐え、キャラバンに置いていかれそうになりながら隊を追いかけ、時には盗賊に襲われる危険にも晒されました。約30日間の苦難を経てトムスクに辿り着いた玉井は、トムスク大学や地元新聞社からの支援を受け、以降は比較的順調に旅を進めることができ、日本を出発してから467日後の1894年2月、ついに目的地であるベルリンに到着しました。

ドイツでの活躍と「私設公使」

ドイツに到着した玉井は、輸入商社などで働きながら、ドイツ人のアジア、特に日本に対する理解に多くの誤りがあることに気づきます。日清戦争が勃発すると、玉井はドイツの新聞にアジアに関する記事を寄稿するようになり、同時にドイツの論調を日本の新聞社に送るなど、ジャーナリストとしての活動を開始しました。1898年には、自身のシベリア横断の記録をまとめたドイツ語の著書『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN（西比利亜征槎紀行）』を刊行しています。

同年3月、玉井はドイツで日本人として初めての月刊誌『東亜 (Ost-Asien)』を創刊します。「日独貿易の大機関」を標榜したこの雑誌は、東アジアの情勢報道に加え、貿易関連の法律ドイツ語訳や、在欧日本人の連絡先、航路時刻表など、実用的な情報を多数掲載しました。これにより、日独間の貿易促進に大きく貢献し、ドイツ企業（ルーベック機械製造会社、ステッドラーなど）や日本企業（髙島屋、ヒゲタ醤油、日本郵船、横浜正金銀行など）から多くの広告を集めました。『東亜』は玉井の死後も刊行が続けられ、1910年までに通算139号が発行されました。

ドイツで活動を続ける玉井の元には、多くの在留日本人が集まるようになります。その面倒見の良さから、いつしか「私設公使」と呼ばれるようになります。玉井の自宅を訪れた人々は、寄せ書き帳に一筆記すのが慣例となっており、そこには札幌農学校時代の旧友に加え、長岡外史、後藤新平、長岡半太郎、巖谷小波、鈴木貫太郎、川上音二郎・貞奴など、当時の各界の著名人の名前が残されています。玉井の存在は、ドイツにおける日本人社会の中心的な役割を果たしました。

1904年に日露戦争が始まると、玉井は『東亜』誌上で戦争の状況を伝える一方、シベリアからの戦争難民支援や日本赤十字社への募金活動にも尽力しました。特に募金活動では、当時の貨幣価値で多額に上る約1万2500円を集めるなど、その影響力は慈善活動にも及びました。また、この頃、諜報活動で知られる明石元二郎と接触していたことが妻エツの証言から明らかになっており、明石の対露工作に協力していた可能性も指摘されています。

晩年と没後の顕彰

しかし、多忙な活動のさなか、玉井は結核に罹患します。病状は悪化し、1906年9月25日、わずか40歳でベルリンにて客死しました。墓所はベルリンと故郷の光市の両方にあります。

玉井喜作の生涯は、没後も語り継がれました。1924年にはベルリン商工会議所前に胸像が建立されましたが、第二次世界大戦で失われています。日本では、1942年にシベリア横断の冒険が初めてマスコミで取り上げられ、その存在が広く知られるようになります。また、彼の著書『西比利亜征槎紀行』は、1963年に初めて日本語に翻訳され、『世界ノンフィクション全集』に収録されるなど、その功績は再評価されています。

玉井喜作は、教育家、冒険家、そしてジャーナリストとして、また「私設公使」として在留日本人を支えるなど、多岐にわたる活動を通して、激動の明治期に国際社会で存在感を示した先駆者と言えるでしょう。

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