相州箱根湖水

葛飾北斎『冨嶽三十六景』より「相州箱根湖水」

葛飾北斎による名高い浮世絵シリーズ『冨嶽三十六景』の中に、「相州箱根湖水」という作品が存在します。落款には「前北斎為一筆」と記されており、北斎自身の作品であることが明確に示されています。

この作品は、神奈川県足柄下郡箱根町に位置する芦ノ湖を題材としています。芦ノ湖は、秋里籬島の『東海道名所図会』巻之五にも「相州箱根湖水」の名で登場しており、古くから名勝として知られていたことが分かります。

北斎は画面の中央に芦ノ湖を大きく配置し、その周囲に箱根神社や箱根駒ヶ岳を描き、遠方には富士山が控えめに姿を現しています。富士山の左側には、三国山と思われる山容が確認できます。湖面は穏やかで、人影はなく、霞がかかったような表現によって、静謐で神秘的な雰囲気が漂う作品となっています。

興味深いのは、この作品における富士山と芦ノ湖の配置です。芦ノ湖越しに富士山を左後方から眺めるという構図は、河村岷雪の『百富士』の中の「箱根湖水」でも採用されており、画題も共通していることから、北斎の作品が河村岷雪の作品に影響を受けている可能性が高いと考えられています。

しかしながら、「相州箱根湖水」は『冨嶽三十六景』の中でも独特な特徴を備えています。空間の奥行きが感じられず、画面全体が比較的平面的に表現されている点です。この平面的な表現が、箱根権現の神聖性を強調するための意図的な手法であったのか、それとも北斎の表現技法上の特徴なのかについては、様々な解釈が可能です。

また、版を重ねるごとに、駒ヶ岳の陰影や山肌の描写が強調されている点も注目に値します。これは、北斎が版画制作を通じて、表現方法を細やかに調整し、作品をより洗練させていったことを示唆しています。

北斎は、単に風景を写実的に描くだけでなく、独自の視点と表現方法によって、箱根の自然と神聖さを融合させた作品を創造したと言えるでしょう。「相州箱根湖水」は、北斎の卓越した画力と、風景画における独自の表現技法を堪能できる、貴重な一枚と言えます。

参考文献

日野原健司『富嶽三十六景』岩波書店、2019年。ISBN 978-4-00-335811-5。
磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁。http://hdl.handle.net/10270/5478。
* 『版画芸術』 203巻、阿部出版、2024年。ISBN 978-4-87242-579-6。

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