磔刑 (ティントレット、サン・ロッコ大同信会)

ティントレットの傑作『磔刑』

『磔刑』（たっけい、伊: La Crocifissione, 英: The Crucifixion）は、ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する巨匠、ティントレットが1565年に完成させた油彩画です。この作品は、新約聖書に記されたイエス・キリストの磔刑という重大な出来事を、高さ536センチ、横幅1224センチという巨大なキャンバスに描き出した、圧倒的なスケールを誇る大作です。ティントレットの最高傑作の一つであると同時に、同主題を扱った西洋絵画の中でも屈指の名作として知られています。

聖書の記述と絵画の主題

この絵画の主題は、『新約聖書』の4つの福音書（マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ）に共通して描かれている、イエス・キリストが十字架にかけられ処刑された出来事です。イエスは捕らえられた後、十字架を背負いゴルゴタの丘へと引かれていきます。その道中、多くの人々がイエスに従い、嘆き悲しむ女性たちの姿もありました。ゴルゴタの丘に到着すると、イエスは2人の罪人と共に十字架にかけられます。兵士たちは籤引きでイエスの衣服を分け合い、十字架の上には「ユダヤ人の王」という罪状書きが掲げられました。イエスの周りでは、聖母マリアやマグダラのマリアなどの女性たちが悲しみに暮れ、役人や兵士たちは嘲笑しました。また、左右の罪人のうち一人はイエスを罵りましたが、もう一人はイエスを信じ、共に天国へ行くことを願いました。昼頃になると全地は暗くなり、イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます！」と叫んで息を引き取ります。その後、聖所の幕が裂け、地震が起こり、多くの聖徒たちが蘇ったとされています。

制作の経緯

この絵画は、サン・ロッコ大同信会のアルベルゴの間（Sala dell'Albergo）を飾るために制作されました。1564年、同信会はアルベルゴの間の天井画を委託する画家を選ぶコンテストを開催しました。ティントレットは、審査前日に『聖ロクスの栄光』（Gloria di san Rocco）を寄贈し、その強引な手法から反発を買いましたが、最終的には他の参加者を退け、天井画の制作を無償で請け負うことになりました。その後、1565年から1567年にかけて壁面の装飾が行われ、その際に正面の壁を飾る大作として『磔刑』が制作されたのです。サン・ロッコ同信会では、守護聖人である聖ロクスの生涯を描く必要がなかったため、キリストの受難をテーマとした連作が選ばれました。この『磔刑』を皮切りに、『カルヴァリオへの道』、『この人を見よ』、『ピラトの前のキリスト』などが制作され、ティントレットは1587年まで同信会の装飾に携わりました。

作品の特徴と詳細

ティントレットは、ゴルゴタの丘で繰り広げられる磔刑の情景を、パノラマのように広大な画面に描き出しています。画面全体は躍動感に満ちていますが、中央のキリストの周囲だけは、静寂と悲しみに包まれています。暗闇に包まれた空の下、キリストは光を放ち、人夫たちがキリストに葡萄酒を含ませようとしています。十字架の根元では、聖母マリアが気を失い、他の女たちが悲嘆に暮れています。また、両側の罪人たちはまだ磔刑の準備中であり、片方は十字架に縛られ、もう片方は十字架を立てる作業が進められています。

画面右端の人物群に紛れて、前かがみになっている青い衣を着た黒い髭の男は、ティントレット自身の自画像だと考えられています。また、画面左端の白馬に乗ったローマの百人隊長は、絵画を委託した同信会の幹部であるジローラモ・ロタの肖像画であるとされています。画面は、中央の十字架を基点に対角線が交差し、作業する人々の動きに統一感を与えています。ティントレットは、10年前にも同主題の絵画を制作していましたが、本作品では、構図の整理や空間的な配置をより慎重に行い、ドラマチックな効果を高めています。制作にあたっては、多くの人物像の習作が残されており、ロンドンやフィレンツェ、ロッテルダムの美術館で素描を見ることができます。

この作品の評価として、研究者たちは、キリストを中心に画面を左右に分け、善人と悪人の魂を表現していると指摘しています。右側の罪人は地面に横たわっているのに対し、左側の罪人は十字架と共に上昇しており、この対比が、最後の審判における天国と地獄の区別を象徴していると解釈されています。

後世への影響と修復

『磔刑』は、制作直後から高い評価を受け、多くの版画が制作されました。その最初のものは、1582年にアゴスティーノ・カラッチによって制作されたものです。ヴィクトリア朝の美術評論家ジョン・ラスキンは、この作品を見ると言葉を失い、その偉大さを賞賛しました。また、アメリカの作家ヘンリー・ジェイムズも、この絵画を深く感銘を受けたと語っています。現在、サン・ロッコ大同信会では、2023年から修復作業が行われており、科学的な調査に基づいて汚れや古いワニスなどが除去され、2年間の予定で修復が進められています。

作品のギャラリー

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脚注

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参考文献

黒江光彦監修『西洋絵画作品名辞典』三省堂（1994年）
ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』高階秀爾監修、河出書房新社（1988年）
『週刊グレート・アーティスト56 ティントレット その生涯と作品と創造の源』同朋舎出版（1995年）

外部リンク

* サン・ロッコ大同信会公式サイト, アルベルゴの間

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