粘菌
粘菌（ねんきん、英: slime molds）とは、一生のうちにアメーバ状の単細胞として活動する時期と、集合や多核化を経て多細胞的な構造である子実体を作る時期を持つ真核生物の総称です。この性質を示す生物は、実際には非常に多様な系統に分散しており、「粘菌」という言葉は特定の分類群を指すものではありません。狭い意味で「粘菌」という場合、多くは大型の多核体である変形体を形成する「変形菌（真正粘菌）」を指しますが、ここではより広い概念としての粘菌について、生物学的な認識がどのように移り変わってきたのかを中心に解説します。
日本語の「粘菌」という言葉は、英語の「slime mold」をそのまま訳した造語である可能性が高いと考えられています。この言葉が初めて日本の学術文献に現れたのは1906年で、海藻学者である遠藤吉三郎が、イギリスで活躍していた博物学者、南方熊楠の粘菌に関する業績を紹介する目的で用いたのが始まりとされています。また、粘菌類に過去に用いられた学名、例えばMyxomycotaやMyxomycetesなども、直訳すればやはり「粘菌」に関連する意味合いを持ちます。
粘菌が生物学者によって研究され始めた当初、その子実体を形成する特徴から、植物界の一員、特に菌類に近い生物として分類されていました。しかし、19世紀半ばになると、ドイツの植物学者アントン・ド・バリーは、粘菌が菌類とは異なり、アメーバのように動き回りながら微生物を捕食するという動物的な性質を持つことに注目しました。彼はこのグループをMycetozoa（動菌）と呼び、動物に近い存在であると主張しました。この発見を契機に、粘菌は次第に植物とも動物とも明確に区別できない、より原始的な真核生物である「原生生物」として捉えられるようになります。興味深いことに、分類上の位置付けが変化する中でも、粘菌の研究は長年にわたり菌類学者が主導することが多かったという歴史があります。20世紀後半には、生物界を五つに分けるロバート・ホイッタカーの五界説の中で菌界に含められたため、一時的に再び菌類として認識される傾向が強まりました。しかし、その後の分子生物学的な手法を用いた真核生物全体の系統関係の詳細な解析が進むにつれて、粘菌が真菌類とは系統的に全く異なるグループであることが繰り返し示され、現在では両者の類縁性はほぼ否定されています。
20世紀半ば頃まで、最も広義の「粘菌類」（Mycetozoa）という言葉は、現在よりも多くの多様な生物群を含む概念でした。例えば、1959年に粘菌研究者のジョン・タイラー・ボナーは、当時の知見に基づいて以下の5つの主要なグループを粘菌類としてまとめています。
ラビリンチュラ類: 「水生粘菌」とも呼ばれ、主に海に生息します。細胞体が特徴的な網状の構造物の上を滑るように移動します。
ネコブカビ類: 植物の細胞内に寄生するものが多く、「寄生粘菌」とも呼ばれます。宿主細胞内でアメーバ状の変形体を作り、最終的に胞子の塊を形成します。
変形菌（真正粘菌）: 一般的に「粘菌」と言われて思い浮かべられる最も代表的なグループで、「真性粘菌」とも呼ばれます。多核性の網状の大きな変形体を形成し、条件が整うと多数の小型の子実体を作って胞子を散布します（例：モジホコリ）。
細胞性粘菌: 普段は単細胞のアメーバとして独立して生活しますが、飢餓などのストレスを受けると多数のアメーバが集まり、集合体を作って子実体を形成します。タマホコリカビ類とアクラシス類が含まれます。
* 原生粘菌: 変形菌に似た小型の変形体を形成しますが、変形体は非常に小さく、特徴的な管状の柄の先端に単一の胞子を形成します。
ボナーはこれらのグループに共通するのは、「菌類と動物の両方の性質をいくらか持ち合わせ、原始的な集合や群体を形成し、多少なりとも粘性がある」といった曖昧な特徴のみであり、これらが系統的に近縁であるかどうかは不明確な、便宜的な分類群であったことを認めています。
その後の分子系統解析による研究の進展により、生物の分類は大きく見直されました。かつて広義の粘菌類に含まれていたグループのうち、ラビリンチュラ類とネコブカビ類は他の生物群との系統的な隔たりが大きいことが明らかになり、現在では粘菌として扱われることは稀になりました。ラビリンチュラ類はストラメノパイルと呼ばれる系統群に、ネコブカビ類はリザリアという系統群に含まれています。一方、残りの3つの主要なグループ、すなわち変形菌（真正粘菌）、原生粘菌、細胞性粘菌は、現在も粘菌として研究・認識されることが多いですが、分子解析によれば原生粘菌や細胞性粘菌の中には系統的に多様なメンバーが含まれていることも分かっています。しかし、真正粘菌と、原生粘菌、そして細胞性粘菌の主要なグループであるタマホコリカビ類などは、現在では「アメーボゾア」と呼ばれる大きな系統群の中に位置付けられており、全体として見れば、これらの粘菌群は比較的近縁な関係にあると考えられています。このように、「粘菌」という言葉が指し示す生物の範囲や、その生物学的な位置付け、そして他の生物との系統的な関係についての理解は、研究の進展と共に常に更新され続けています。
日本語の「粘菌」という言葉は、英語の「slime mold」をそのまま訳した造語である可能性が高いと考えられています。この言葉が初めて日本の学術文献に現れたのは1906年で、海藻学者である遠藤吉三郎が、イギリスで活躍していた博物学者、南方熊楠の粘菌に関する業績を紹介する目的で用いたのが始まりとされています。また、粘菌類に過去に用いられた学名、例えばMyxomycotaやMyxomycetesなども、直訳すればやはり「粘菌」に関連する意味合いを持ちます。
粘菌が生物学者によって研究され始めた当初、その子実体を形成する特徴から、植物界の一員、特に菌類に近い生物として分類されていました。しかし、19世紀半ばになると、ドイツの植物学者アントン・ド・バリーは、粘菌が菌類とは異なり、アメーバのように動き回りながら微生物を捕食するという動物的な性質を持つことに注目しました。彼はこのグループをMycetozoa（動菌）と呼び、動物に近い存在であると主張しました。この発見を契機に、粘菌は次第に植物とも動物とも明確に区別できない、より原始的な真核生物である「原生生物」として捉えられるようになります。興味深いことに、分類上の位置付けが変化する中でも、粘菌の研究は長年にわたり菌類学者が主導することが多かったという歴史があります。20世紀後半には、生物界を五つに分けるロバート・ホイッタカーの五界説の中で菌界に含められたため、一時的に再び菌類として認識される傾向が強まりました。しかし、その後の分子生物学的な手法を用いた真核生物全体の系統関係の詳細な解析が進むにつれて、粘菌が真菌類とは系統的に全く異なるグループであることが繰り返し示され、現在では両者の類縁性はほぼ否定されています。
20世紀半ば頃まで、最も広義の「粘菌類」（Mycetozoa）という言葉は、現在よりも多くの多様な生物群を含む概念でした。例えば、1959年に粘菌研究者のジョン・タイラー・ボナーは、当時の知見に基づいて以下の5つの主要なグループを粘菌類としてまとめています。
ラビリンチュラ類: 「水生粘菌」とも呼ばれ、主に海に生息します。細胞体が特徴的な網状の構造物の上を滑るように移動します。
ネコブカビ類: 植物の細胞内に寄生するものが多く、「寄生粘菌」とも呼ばれます。宿主細胞内でアメーバ状の変形体を作り、最終的に胞子の塊を形成します。
変形菌（真正粘菌）: 一般的に「粘菌」と言われて思い浮かべられる最も代表的なグループで、「真性粘菌」とも呼ばれます。多核性の網状の大きな変形体を形成し、条件が整うと多数の小型の子実体を作って胞子を散布します（例：モジホコリ）。
細胞性粘菌: 普段は単細胞のアメーバとして独立して生活しますが、飢餓などのストレスを受けると多数のアメーバが集まり、集合体を作って子実体を形成します。タマホコリカビ類とアクラシス類が含まれます。
* 原生粘菌: 変形菌に似た小型の変形体を形成しますが、変形体は非常に小さく、特徴的な管状の柄の先端に単一の胞子を形成します。
ボナーはこれらのグループに共通するのは、「菌類と動物の両方の性質をいくらか持ち合わせ、原始的な集合や群体を形成し、多少なりとも粘性がある」といった曖昧な特徴のみであり、これらが系統的に近縁であるかどうかは不明確な、便宜的な分類群であったことを認めています。
その後の分子系統解析による研究の進展により、生物の分類は大きく見直されました。かつて広義の粘菌類に含まれていたグループのうち、ラビリンチュラ類とネコブカビ類は他の生物群との系統的な隔たりが大きいことが明らかになり、現在では粘菌として扱われることは稀になりました。ラビリンチュラ類はストラメノパイルと呼ばれる系統群に、ネコブカビ類はリザリアという系統群に含まれています。一方、残りの3つの主要なグループ、すなわち変形菌（真正粘菌）、原生粘菌、細胞性粘菌は、現在も粘菌として研究・認識されることが多いですが、分子解析によれば原生粘菌や細胞性粘菌の中には系統的に多様なメンバーが含まれていることも分かっています。しかし、真正粘菌と、原生粘菌、そして細胞性粘菌の主要なグループであるタマホコリカビ類などは、現在では「アメーボゾア」と呼ばれる大きな系統群の中に位置付けられており、全体として見れば、これらの粘菌群は比較的近縁な関係にあると考えられています。このように、「粘菌」という言葉が指し示す生物の範囲や、その生物学的な位置付け、そして他の生物との系統的な関係についての理解は、研究の進展と共に常に更新され続けています。
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