糸車の聖母

『糸車の聖母』は、盛期ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチが1500年前後に描いたとされる絵画です。この作品には、バクルー公爵家が所蔵する「バクルーの聖母」と、プライベートコレクションに収蔵されている「ランズダウンの聖母」という二つのバージョンが存在します。どちらも、聖母マリアが幼子イエスを抱き、イエスが糸車の一種であるかせとり棒を見つめる姿を描いており、キリストの受難を暗示する象徴的なモチーフが用いられています。

作品の概要

『糸車の聖母』は、マリアの家庭生活を象徴する糸車と、キリストの磔刑を予示する聖十字架を暗示するかせとり棒が組み合わされています。この絵画は、マリアの愛情と将来の苦難への覚悟が織り交ぜられた複雑な感情を表現しており、その生き生きとした構成と物語性は、ラファエロやアンドレア・デル・サルトといった後世の画家たちに大きな影響を与えました。多くの模写や構成を真似た作品が現存することからも、その影響力の大きさが伺えます。

二つのバージョン

バクルーの聖母

「バクルーの聖母」は、スコットランドのバクルー公爵家が所蔵しており、現在はスコットランド国立美術館に長期貸与されています。この作品は、レオナルド自身が大部分を描いたと考えられていますが、工房の協力があった可能性も指摘されています。

来歴

「バクルーの聖母」は、18世紀にモンタギュー家からバクルー公爵家に渡り、その後ドラムランリグ城に保管されていました。2003年には盗難に遭いましたが、2007年に無事発見され、現在に至ります。この盗難事件は、美術品をめぐる複雑な人間関係と法律問題を浮き彫りにしました。

盗難事件

2003年、「バクルーの聖母」はドラムランリグ城から盗まれました。犯人たちは観光客を装い、盗難を目撃した観光客に対して「警察官だ」と偽って立ち去りました。その後、弁護士を通じて返還交渉が行われ、警察の覆面捜査によって作品は無事回収されました。

ランズダウンの聖母

「ランズダウンの聖母」は、19世紀にランズダウン侯爵家が所有していたことからこの名で呼ばれています。この作品は、二番目のバージョンであると考えられています。美術史家たちは、レオナルド自身が描いた部分と、工房の弟子が描いた部分があると考えています。

来歴

「ランズダウンの聖母」は、数々のコレクターの手を経て、1928年にカナダ人実業家ロバート・ウィルソン・リフォードの手に渡りました。1972年にオークションに出品された際は、ソドマ作とされ、レオナルド作であればありえない価格で落札されています。その後、再移植や修復を経て、現在は個人コレクターが所蔵しています。この作品も、盗難、修復、再発見の歴史を辿ってきました。

制作の背景

『糸車の聖母』は、フランス王ルイ12世の秘書フロリモン・ロベルテからの依頼で制作が始まったと記録されています。1501年頃に制作が開始されたと考えられ、1507年にはフランス王宮に持ち込まれたという説がありますが、その後の所在は不明確です。レオナルドがミラノからフィレンツェへ避難した後、この作品の制作に取り掛かったとされています。

構成とモチーフ

『糸車の聖母』は、聖母マリアが幼子イエスを抱き、イエスがかせとり棒を見つめる構図で描かれています。このかせとり棒は、マリアの家庭生活の象徴であるとともに、キリストの磔刑を予示する聖十字架の暗示でもあります。この作品には、人物像の背後に広大な風景が描かれており、「バクルーの聖母」と「ランズダウンの聖母」では、それぞれ異なる風景が描かれています。特に「ランズダウンの聖母」の背景は、レオナルドが得意とした山岳風景が描かれています。

二つのバージョンの比較

「バクルーの聖母」と「ランズダウンの聖母」は、背景の風景や細部の描写が異なります。「バクルーの聖母」の背景は広い水面である一方、「ランズダウンの聖母」は山岳風景が描かれています。また、下絵の段階では、現在の完成品とは異なる構成であったことが分かっています。下絵には、聖ヨセフや産婆と思しき女性が描かれており、初期の段階では、より複雑な構成であったことが示唆されます。

後世への影響と模写作品

『糸車の聖母』は、多くの画家たちに影響を与え、数多くの模写作品が制作されました。模写の中には、現在の完成品とは異なる構成で描かれているものも存在し、レオナルドの制作過程を研究する上で貴重な資料となっています。模写作品の中には、フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェラーラの書簡に記述された「かご」が描かれているものや、岩肌の表現が異なるものが存在します。これらの模写は、レオナルド派と呼ばれる画家たちの作品であると考えられています。

模写を所蔵する主な施設

ウフィツィ美術館 (フィレンツェ)
ディジョン美術館 (ディジョン)
スコットランド国立美術館 (エディンバラ)
ルーヴル美術館 (パリ)

など、世界各地の美術館や個人コレクションに模写作品が所蔵されています。

まとめ

『糸車の聖母』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの卓越した技量と、深い人間洞察が込められた傑作です。二つのバージョンが存在し、それぞれが異なる歴史を辿ってきました。この作品は、その後の美術界に大きな影響を与え、現在でも多くの人々を魅了し続けています。模写作品を通して、レオナルドの制作過程や影響力を知ることもでき、この作品の研究は、美術史における重要なテーマの一つとなっています。

もう一度検索