翁草

翁草（おきなぐさ）

概要

『翁草』は、江戸時代に京都町奉行所の与力を務めた神沢杜口（かんざわ　とこう）によって編纂された、全200巻からなる膨大な随筆です。前編100巻、後編100巻で構成され、杜口の曾祖父以来の蔵書、先行文献、自身が見聞したことや体験を基に、歴史的事実、人物伝、法制度、文学、宗教、風俗、地理、経済など、多岐にわたる内容が記述されています。

杜口はこれらの情報を、単に書き写すだけでなく、自身の批評や解説を加えており、その視点の面白さや考察の深さが魅力です。元となった資料は広く知られているものも多いですが、近世後期、特に京都の文化や社会を知るための第一級資料として、その価値は非常に高いと評価されています。

内容

『翁草』には、室町時代末期から寛政3年（1791年）までの約200年間における、歴史上の出来事や人物に関する記述が豊富です。特に武士に関する記述が多く、織田信長や豊臣秀吉、歴代徳川将軍といった天下人から、領主、大名、旗本、戦国武将、兵卒まで、幅広い階層の武士が登場します。また、皇室、公家、僧侶、神職、学者、儒者、医者、芸能家、芸術家、茶人、棋士、農民、職人、商人など、身分や職業、老若男女を問わず、様々な人々が描かれています。

杜口自身が俳人であったことから、俳人に関する記述は特に詳細で、江戸中期における京都俳壇の様子を知る上で貴重な資料となっています。当時の人物、事件、世相を生き生きと描写していることから、多くの研究者や作家がこの随筆を引用し、その内容を基にした作品も数多く存在します。

成立と変遷

『翁草』は、明和9年（1772年）に前編100巻が成立しました。杜口が75歳の時に抄出本が作られましたが、天明8年（1788年）の京都大火で焼失。その後も編纂を続け、寛政3年（1791年）に後編100巻が完成しました。当初、明和年中に前編100巻、天明年間には後編100巻が成立したものの、天明の大火で一部を焼失したため、補足が加えられたという経緯があります。

写本として成立した後、いくつかの版本も作成されましたが、それぞれ収録されている内容に差異があります。主な版本としては、嘉永4年（1851年）に池田東籬亭が校訂した全5巻本（一部のみ収録）、近藤瓶城が編纂した『存採叢書』収録本、明治38年（1905年）に池近義象が校訂した版本、昭和6年（1931年）に日本随筆大成編集部が編纂した『日本随筆大成』収録本、昭和45年（1970年）に明治38年版を復刻した版本などがあります。また、国立国会図書館には、上野本『異本翁草』が所蔵されており、内容に一部差異が見られます。

『翁草』を元にした作品

『翁草』は、後世の文学作品にも大きな影響を与えています。森鴎外の『高瀬舟』や『興津弥五右衛門の遺書』、菊池寛の『入れ札』は、『翁草』に収録されているエピソードを基に書かれた作品として知られています。

森鴎外『高瀬舟』: 『翁草』巻之百十七に収録されている流人の話が元になっています。
森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』: 『翁草』巻之六に収録されている細川家の香木の話が元になっています。
菊池寛『入れ札』: 『翁草』巻之二十九に収録されている同臣坂川忠兵衛が自ら入札した話が元になっています。

参考文献

『翁草』の研究や関連する歴史文化の研究には、以下のような文献が参照されています。

神沢貞幹『翁草（上） 原本現代訳』教育社新書、1980年。
神沢貞幹『翁草（下） 原本現代訳』教育社新書、1980年。
日本随筆大成編輯部編『翁草 日本随筆大成 第3期』吉川弘文館、1978年。
『随筆百花苑 10 風俗世相篇四』宗政五十緒責任編集、中央公論社、1984年。「異本翁草」を抄録
赤瀬浩『「株式会社」長崎出島』 講談社選書メチエ
大石学『新しい江戸時代が見えてくる 「平和」と「文明化」の265年』吉川弘文館
尾脇秀和『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』 NHK出版
佐藤雅美『江戸の税と通貨 徳川幕府を支えた経済官僚』 太陽企画出版
清水昇『江戸の隠密・御庭番』 河出書房新社
鈴木康子『長崎奉行の研究』 思文閣出版
高埜利彦『日本の時代史15 元禄の社会と文化』 吉川弘文館
丹野顯『江戸の盗賊 知られざる“闇の記録”に迫る』 青春出版社
丹野顯『「火附盗賊改」の正体 幕府と盗賊の三百年戦争』 集英社新書
永山久夫『江戸めしのスゝメ』 メディアファクトリー新書
仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』 草思社
水谷三公『江戸の役人事情―『よしの冊子』の世界』 ちくま新書
南和男『江戸の町奉行』吉川弘文館
森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』新潮文庫、2006年。
安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』 吉川弘文館
山下昌也『実録 江戸の悪党』 学研新書
『国史大辞典』第2巻 吉川弘文館

外部リンク

* 翁草 : 校訂 (五車楼書店, 1906)国立国会図書館デジタルコレクション

『翁草』は、江戸時代の社会や文化を多角的に知ることができる貴重な文献であり、歴史、文学、文化に関心のある人にとって、非常に興味深い読み物となるでしょう。

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