荒川堤
荒川堤は、東京都内を流れる荒川および旧荒川（現在の隅田川）沿いの堤防に位置する景勝地であり、特に桜の名所として古くから知られています。
日本の桜は、平安時代頃から人為的な選抜や交配による品種改良が行われてきたと考えられており、江戸時代後期には栽培品種が250種類近くにまで増えていました。これらの多くは、オオシマザクラを元に改良されたサトザクラの仲間で、大名屋敷や寺社仏閣、あるいは水路の脇などに植えられ、人々に親しまれていました。
しかし、明治維新を迎えると、社会構造の変革や急速な都市開発が進み、旧来の屋敷や寺社の敷地は荒廃したり、所有者が変わったりする中で、多くの桜が失われる危機に瀕しました。このような状況を憂えたのが、染井村（現在の東京都豊島区）で植木職人を営んでいた高木孫右衛門です。彼は、様々な種類の桜を自身の敷地に集めて保存する活動を行いました。
これと同じ危機感を抱いていたのが、江北村（現在の東京都足立区）の村長だった清水謙吾です。清水は、多品種の桜を保存する計画を立て、旧知の間柄であった高木孫右衛門に、多くの種類の桜の増殖を依頼しました。そして1885年（明治18年）、荒川の堤防改修が計画された際、周辺住民から堤防上に桜を植える要望が出されたことを受け、清水は高木と交渉します。その結果、高木が保存・増殖していた78種類、およそ3000本にも及ぶ桜が、江北村から西新井村にかけての堤防上に植えられることとなりました。この時、もし手に入りやすかったソメイヨシノだけが植えられていたならば、現在まで伝わる江戸時代からの多種多様な桜の品種は、さらに少なくなっていたかもしれません。
植えられた桜は順調に成長し、1903年（明治36年）頃には見事な景観を見せるようになります。堤防沿いに咲き誇る桜は、その種類の多さからくる様々な色合いが人々を魅了し、「五色桜」と呼ばれるようになりました。荒川堤はまたたく間に東京有数の桜の名所となり、多くの花見客で賑わいました。
荒川堤の桜は、国内におけるサトザクラ品種の普及にも大きな役割を果たしました。ここから小石川植物園や興津園芸試験場、新宿御苑といった各地の研究機関に苗が移植され、それがもととなって、多くのサトザクラ品種が全国へと広まっていったのです。
さらに、荒川堤の桜は、日米親善という国際的な貢献も果たしました。1912年、当時の東京市長である尾崎行雄氏が、ワシントンD.C.に桜を贈る計画を実行に移す際、荒川堤の桜が重要な供給源の一つとなりました。ソメイヨシノをはじめ、カンザン、イチヨウ、タキニオイなど12種類、合計3020本もの桜が贈られ、ポトマック川沿いのタイダルベイスンに植えられました。これらの桜は、現在「全米桜祭り」の起源として、ワシントンD.C.の春を彩るシンボルとなっています。
しかし、荒川堤の桜はその後、試練を迎えます。荒川放水路の建設工事に伴う堤防の改変や、都市化の進展により、桜並木は次第に衰退していきました。放水路建設時には移植も試みられましたが、芳しい成果は上がりませんでした。事態を重く見た国は、1924年に荒川堤を国の史跡名勝記念物に指定し、保護を図ろうとしました。しかし、第二次世界大戦中の物資不足から、無情にも薪木として伐採されてしまい、かつての壮麗な姿は失われてしまったのです。
多くの桜が失われる中で、品種を絶やさぬよう尽力した人々がいました。第二次世界大戦中、埼玉県川口市安行の植木業者だった小清水亀之助氏は、貴重な品種を自宅に集めて守り続けました。戦後、1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が、小清水氏から苗を受け継ぎ、現在もそれぞれの施設で多数の系統・個体が大切に保存されています。これら保存された桜こそが、江戸時代以前から続く日本のサトザクラの貴重な命脈を今に伝えているのです。
荒川堤の桜並木の復活は、戦後も全国各地やアメリカの協力のもと試みられましたが、かつての規模を完全に回復することは難しい状況が続きました。転機が訪れたのは、足立区政50周年を迎えた1981年です。かつて荒川堤から贈られた桜の子孫にあたる、ワシントンD.C.から里帰りした35種類約3000本の桜の苗木が寄贈されました。これらの苗木が再び荒川沿いに植えられ、現在の美しい桜並木の基礎となっています。また、一部は足立区内の公園に植えられ、当時のレーガン大統領夫人から贈られたことにちなんで「レーガン桜」とも呼ばれています。
荒川堤以外にも、日本の貴重な桜品種が保存されるルートが存在しました。幕末の頃から、日本の桜はその美しさで西洋人の関心を惹きつけ、フゲンゾウやウコンといった品種が欧州に持ち出されました。このように海外で保存された品種が、一度日本で絶えてしまった後に「里帰り」して復活を遂げた例もあります。例えば、シーボルトが1866年に日本から持ち出した後、国内で姿を消していたホクサイという品種は、日本の桜を熱心に収集していたイギリスの園芸家、コリングウッド・イングラムによって守られ、後に日本に返還されました。また、かつて京都にあったもののイギリスへ渡り、国内で絶えていたタイハク（太白）も、イングラムの手を経て1932年に日本に里帰りし、再び見られるようになりました。
荒川堤は、ただ美しい桜が見られる場所というだけでなく、日本の桜の品種保存の歴史、そして国際交流の証として、その重要性を今に伝えています。足立区登録有形文化財である「荒川堤五色桜碑」は、この地の歴史を静かに物語っています。
日本の桜は、平安時代頃から人為的な選抜や交配による品種改良が行われてきたと考えられており、江戸時代後期には栽培品種が250種類近くにまで増えていました。これらの多くは、オオシマザクラを元に改良されたサトザクラの仲間で、大名屋敷や寺社仏閣、あるいは水路の脇などに植えられ、人々に親しまれていました。
しかし、明治維新を迎えると、社会構造の変革や急速な都市開発が進み、旧来の屋敷や寺社の敷地は荒廃したり、所有者が変わったりする中で、多くの桜が失われる危機に瀕しました。このような状況を憂えたのが、染井村（現在の東京都豊島区）で植木職人を営んでいた高木孫右衛門です。彼は、様々な種類の桜を自身の敷地に集めて保存する活動を行いました。
これと同じ危機感を抱いていたのが、江北村（現在の東京都足立区）の村長だった清水謙吾です。清水は、多品種の桜を保存する計画を立て、旧知の間柄であった高木孫右衛門に、多くの種類の桜の増殖を依頼しました。そして1885年（明治18年）、荒川の堤防改修が計画された際、周辺住民から堤防上に桜を植える要望が出されたことを受け、清水は高木と交渉します。その結果、高木が保存・増殖していた78種類、およそ3000本にも及ぶ桜が、江北村から西新井村にかけての堤防上に植えられることとなりました。この時、もし手に入りやすかったソメイヨシノだけが植えられていたならば、現在まで伝わる江戸時代からの多種多様な桜の品種は、さらに少なくなっていたかもしれません。
植えられた桜は順調に成長し、1903年（明治36年）頃には見事な景観を見せるようになります。堤防沿いに咲き誇る桜は、その種類の多さからくる様々な色合いが人々を魅了し、「五色桜」と呼ばれるようになりました。荒川堤はまたたく間に東京有数の桜の名所となり、多くの花見客で賑わいました。
荒川堤の桜は、国内におけるサトザクラ品種の普及にも大きな役割を果たしました。ここから小石川植物園や興津園芸試験場、新宿御苑といった各地の研究機関に苗が移植され、それがもととなって、多くのサトザクラ品種が全国へと広まっていったのです。
さらに、荒川堤の桜は、日米親善という国際的な貢献も果たしました。1912年、当時の東京市長である尾崎行雄氏が、ワシントンD.C.に桜を贈る計画を実行に移す際、荒川堤の桜が重要な供給源の一つとなりました。ソメイヨシノをはじめ、カンザン、イチヨウ、タキニオイなど12種類、合計3020本もの桜が贈られ、ポトマック川沿いのタイダルベイスンに植えられました。これらの桜は、現在「全米桜祭り」の起源として、ワシントンD.C.の春を彩るシンボルとなっています。
しかし、荒川堤の桜はその後、試練を迎えます。荒川放水路の建設工事に伴う堤防の改変や、都市化の進展により、桜並木は次第に衰退していきました。放水路建設時には移植も試みられましたが、芳しい成果は上がりませんでした。事態を重く見た国は、1924年に荒川堤を国の史跡名勝記念物に指定し、保護を図ろうとしました。しかし、第二次世界大戦中の物資不足から、無情にも薪木として伐採されてしまい、かつての壮麗な姿は失われてしまったのです。
多くの桜が失われる中で、品種を絶やさぬよう尽力した人々がいました。第二次世界大戦中、埼玉県川口市安行の植木業者だった小清水亀之助氏は、貴重な品種を自宅に集めて守り続けました。戦後、1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が、小清水氏から苗を受け継ぎ、現在もそれぞれの施設で多数の系統・個体が大切に保存されています。これら保存された桜こそが、江戸時代以前から続く日本のサトザクラの貴重な命脈を今に伝えているのです。
荒川堤の桜並木の復活は、戦後も全国各地やアメリカの協力のもと試みられましたが、かつての規模を完全に回復することは難しい状況が続きました。転機が訪れたのは、足立区政50周年を迎えた1981年です。かつて荒川堤から贈られた桜の子孫にあたる、ワシントンD.C.から里帰りした35種類約3000本の桜の苗木が寄贈されました。これらの苗木が再び荒川沿いに植えられ、現在の美しい桜並木の基礎となっています。また、一部は足立区内の公園に植えられ、当時のレーガン大統領夫人から贈られたことにちなんで「レーガン桜」とも呼ばれています。
荒川堤以外にも、日本の貴重な桜品種が保存されるルートが存在しました。幕末の頃から、日本の桜はその美しさで西洋人の関心を惹きつけ、フゲンゾウやウコンといった品種が欧州に持ち出されました。このように海外で保存された品種が、一度日本で絶えてしまった後に「里帰り」して復活を遂げた例もあります。例えば、シーボルトが1866年に日本から持ち出した後、国内で姿を消していたホクサイという品種は、日本の桜を熱心に収集していたイギリスの園芸家、コリングウッド・イングラムによって守られ、後に日本に返還されました。また、かつて京都にあったもののイギリスへ渡り、国内で絶えていたタイハク（太白）も、イングラムの手を経て1932年に日本に里帰りし、再び見られるようになりました。
荒川堤は、ただ美しい桜が見られる場所というだけでなく、日本の桜の品種保存の歴史、そして国際交流の証として、その重要性を今に伝えています。足立区登録有形文化財である「荒川堤五色桜碑」は、この地の歴史を静かに物語っています。
もう一度検索
【記事の利用について】
タイトルと記事文章は、記事のあるページにリンクを張っていただければ、無料で利用できます。
※画像は、利用できませんのでご注意ください。
【リンクついて】
リンクフリーです。