薤露行

夏目漱石『薤露行』：アーサー王物語と漱石の深淵

1905年（明治38年）、夏目漱石によって発表された短編小説『薤露行』は、日本におけるアーサー王物語を題材とした最初の作品として、文学史にその名を刻んでいます。円卓の騎士ランスロットを中心に、ギニヴィア、シャロットの女、エレーンの3人の女性との関わりを通して描かれる物語は、複雑な人間心理と、漱石独自の文体が織りなす深遠な世界観を提示しています。

執筆の背景と文体

『薤露行』の執筆時期は、1905年9月上旬から中旬と推測され、漱石の代表作『吾輩は猫である』の連載が好評を博していた時期と重なります。この作品は、雑誌『中央公論』11月号に掲載され、漱石がすでに一流作家として認められていたことを示す出来事となりました。翌年には、他の6つの短編とともに『漾虚集』として刊行されています。

特筆すべきは、その文体です。『薤露行』は、当時主流になりつつあった口語体ではなく、漢文調を思わせる難解な擬古体で書かれています。この文体は、漱石が「大方ならぬ苦心」と表現したように、言葉選びに格闘した結果であり、高浜虚子への書簡には『吾輩は猫である』の5倍の労力を費やしたと記されています。この難解さが、後の作品における評価や知名度に影響を与えたと考えられます。

物語の構成とあらすじ

『薤露行』は、マロリーの『アーサー王の死』とテニソンの『国王牧歌』および『シャロットの女』を基に、漱石が自由に脚色した作品です。物語は、「夢」、「鏡」、「袖」、「罪」、「舟」の5章から構成されており、それぞれの章でランスロットと3人の女性の関係が異なる視点から描かれます。

夢: ランスロットとギニヴィアの密会と、不吉な夢。
鏡: シャロットの女とランスロットの運命的な出会い。
袖: エレーンとランスロットの恋と、エレーンがランスロットに贈った袖。
罪: ランスロットの不在と、ギニヴィアとランスロットの密通の暴露。
* 舟: エレーンの死と、彼女の遺体が小舟でカメロットに送られる様子。

各章は、互いに密接に関連しながらも、異なる視点を提供することで、多角的な物語構成を形成しています。特にシャロットの女とエレーンは、アーサー王物語において同一の起源を持つ人物ですが、漱石は彼らを別の人物として描くことで、物語に独特の奥行きを与えています。

タイトルとテーマ

『薤露行』というタイトルは、中国の古詩「薤露」に由来しています。この詩は、人生のはかなさを詠ったものであり、物語全体のテーマである運命、愛、罪、死といった要素と深い関連があります。漱石は、シャロットとアストラットという地名がエシャロット（西洋ネギ）を連想させ、さらに中国の薤（ラッキョウ）との関連性を見出し、このタイトルを考案したと推測されています。

ランスロット像とアーサー王物語

『薤露行』におけるランスロットは、理想の騎士像とは異なる、葛藤と苦悩を抱える複雑な人物として描かれています。ギニヴィア、シャロットの女、エレーンの3人の女性との関係を通して、彼の内面の葛藤が浮き彫りにされています。これは、漱石の他の作品、『幻影の盾』や『こゝろ』にも見られる、主君への忠誠と強い恋愛感情の狭間で苦しむ人物像と共通しています。大岡昇平は、ランスロットの行方が物語の最大の謎であり、白鳥がランスロットの化身であると解釈しています。

和漢洋の要素と漱石の独自性

『薤露行』は、西洋のアーサー王物語を題材としながらも、日本の古典文学や演劇などの要素を取り入れています。「鏡」の章における鏡の描写は能の『土蜘蛛』を連想させ、「袖」の章のエレーンは「白き胡蝶」と比喩されています。さらに、「舟」の章では、エレーンの死が自然の再生力を象徴する漢詩「薤露」の最後の意味と関連づけられています。漱石は、これら西洋、中国、日本の要素を巧みに融合することで、独自の文学世界を構築しています。

評価と論争

『薤露行』は発表当時から高い評価を得ていましたが、難解さから知名度は高くありません。江藤淳と大岡昇平の間では、この作品の意味やテーマについて激しい論争が展開されました。江藤は、漱石の嫂である登世への挽歌であると主張した一方、大岡は、ランスロットの行方不明という点を作品の核心として捉えています。これらの論争は、作品への多様な解釈の可能性を示しており、今日においても活発な議論の対象となっています。

まとめ

『薤露行』は、アーサー王物語を題材とした日本初の作品というだけでなく、漱石独自の文体、複雑な心理描写、多様な文化的要素の融合など、多くの点で注目に値する作品です。難解さゆえに理解が難しい部分もありますが、その深遠な世界観と、現代においてもなお議論を呼び起こすテーマは、多くの読者を魅了し続けています。この作品は、漱石の作家としての才能と、その時代背景を理解する上で、重要な作品の一つと言えるでしょう。

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