西船橋駅ホーム転落死事件

本件は、1986年（昭和61年）1月に千葉県の国鉄（現在のJR東日本）西船橋駅で発生し、その後の裁判で正当防衛が認められた傷害致死事件です。別名「西船橋駅事件」とも呼ばれます。

事件概要

事件は1986年 1月14日の深夜に発生しました。JR総武線西船橋駅のホームで、酒に酔った47歳の男性が、帰宅途中の41歳の女性に執拗に絡み始めました。口論となるうちに、男性は女性のコートの襟元を両手で掴んで離そうとせず、二人はもみ合いとなりました。身の危険を感じた女性が男性を突き飛ばしたところ、男性は体勢を崩して線路へ転落してしまいました。ホームにいた他の乗客数人が男性を引き上げようとしましたが、その間に上り電車が進入し、男性は電車に轢かれて死亡しました。

女性は、男性を突き飛ばして死亡させたとして傷害致死罪で逮捕、起訴されました。

事件発生当時、被害者とされる男性が都立高校の体育教師、被告人となった女性がストリッパーであったことから、マスコミは両者の職業を対比させるなど、興味本位の報道が目立ちました。しかし、この事件は単なる不幸な事故としてではなく、女性に対する男性からの暴力という社会問題を浮き彫りにする契機ともなりました。被告人女性を支援しようと考える有志の女性たちが集まり応援団を結成。無罪判決を求める署名活動も展開され、1987年 1月から開始された活動では、最終的に4千筆を超える署名が集まるなど、支援の輪が広がりました。

裁判の経緯

千葉地方裁判所での公判において、検察側は女性に対して傷害致死罪を適用し、懲役2年を求刑しました。一方、弁護側は、女性の行為は男性による急迫不正な侵害に対する防衛行為であり、刑法第三十六条第一項に規定される正当防衛が成立するとして無罪を主張しました。

裁判における主要な論点の一つは、女性の防衛行為（突き飛ばし）によって生じた結果（男性の死亡）が、防衛によって守ろうとした利益（女性の身体の安全）と比較して著しく不均衡である、いわゆる過剰防衛にあたるか否かでした。日本の刑法における正当防衛は、「やむを得ずにした行為」と定められており、この「やむを得ず」の解釈が問題となります。この点については、すでに1969年（昭和44年）の最高裁判決において、「反撃行為が急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を有することを意味し、右行為によって生じた結果がたまたま侵害されようとした法益より大であっても、正当防衛行為でなくなるものではない」との判断が示されていました。

千葉地裁は1987年（昭和62年）9月17日、この最高裁判例を踏襲する形で判決を下しました。判決では、女性が酒に酔った男性から逃れるために身体を突き飛ばした行為は、防衛手段として相当なものであったと認定。その結果、男性が線路に転落し、進入してきた電車に挟まれるという、女性にとっては想定外の事情により死亡に至ったとしても、これは男性による急迫不正な侵害から自己を防衛するための正当な行為にあたると判断しました。これにより、被告人女性には正当防衛が成立し、無罪が言い渡されました。検察側はこの判決に対して控訴せず、女性の無罪が確定しました。

セクシュアルハラスメント概念との関連について

本事件の裁判が、日本社会に「セクシュアル・ハラスメント（性的嫌がらせ）」という概念が浸透するきっかけとなり、「日本初のセクハラ裁判」であったとする見解が見られます。確かに、事件は男性から女性への執拗な嫌がらせという側面を持っていました。しかし、この見方は必ずしも正確ではないという批判も存在します。

事件は偶発的な出来事であり、当時の社会においてセクシュアル・ハラスメントという言葉や概念はまだ一般的ではありませんでした。研究者らの指摘によれば、本事件の判決が出た翌年の1988年（昭和63年）の時点でも、セクシュアル・ハラスメントに関する認識は、女性問題や労働問題に関心のある一部の人々に留まっていました。マスコミがこの言葉を本格的に取り上げ始めたのは、1989年（平成元年）4月以降であると特定されています。

では、なぜ本事件がセクシュアル・ハラスメントと結びつけられるようになったのでしょうか。その背景には、本事件と翌年の池袋買春男性死亡事件の被告人女性を支援した女性団体が、1988年にセクシュアル・ハラスメントに関する日本初の書籍を翻訳出版し大きな反響を呼んだことや、1989年の新語・流行語大賞で「セクシャル・ハラスメント」が金賞を受賞した際、本事件の弁護団の一員であった河本和子弁護士が表彰されたことなどが影響したと指摘されています。ただし、セクシュアル・ハラスメントという言葉は河本弁護士が提唱したものではなく、本裁判の弁論においても用いられていません。

新語・流行語大賞の受賞が本事件の弁護士になされたのは、当時、セクハラという言葉を広く知らしめる決定的な要因となった、出版社による不当解雇を訴えた福岡セクシュアルハラスメント事件の民事訴訟がまだ係争中であり、その当事者が公の場で表彰されるのが難しかったためではないかと言われています。

その他

本事件をモデルとしたテレビドラマが制作されています。1994年（平成6年）には、テレビ朝日系の「土曜ワイド劇場」で『事件 (2) : OLが見たホーム転落死の真相！もし貴女が男にからまれたら…』として放映されました。事件の舞台は変更されているものの、実際の裁判と同様に被告人女性に無罪が言い渡される結末となっています。

また、本事件は、学校などで実施される模擬裁判の題材として用いられることもあります。

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