谷幸雄

谷 幸雄：異国の地で柔術の旗を掲げた「スモール・タニ」

谷 幸雄（たに ゆきお、1880年-1950年）は、日本の柔術家であり、講道館柔道を修めた柔道家でもありました。特に、生涯の大半をイギリスで過ごし、日本国外で初めて柔術を指導し、公の場で試合を行った先駆者の一人として、その名を歴史に刻んでいます。160cmに満たない身長と60kgに満たない体重という小柄な体格から、「スモール・タニ」の愛称で親しまれ、ロンドンのミュージックホールを中心に、数多くの他流試合を戦い抜きました。特に、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのライト級チャンピオン、ジミー・メラーを破ったことは、当時の新聞「スポーティング・ライフ」でも大きく称賛されています。

武道家としての系譜と背景

谷幸雄の日本における具体的な事績の詳細は必ずしも明らかではありませんが、彼の出自は代々柔術に携わる家系であったことが分かっています。祖父の谷鹿之助悦足、父の谷虎雄柳応斎知幾（別名：谷知幾）、そして兄の谷鑛馬もまた、天神真楊流の柔術家でした。祖父の谷鹿之助は阿波国出身で、天神真楊流の流祖である磯又右衛門の門下生でした。父の谷虎雄は、東京で開かれた天神真楊流柔術の興行に、三代目家元の磯正智や嘉納治五郎の師である福田八之助らと共に参加するなど、当時の柔術界で活動していました。また、警視庁では武術世話掛を務めた経験もあります。谷幸雄の兄、谷鑛馬は、東京市京橋区新栄町に弘武館という道場を構え、天神真楊流を教えていました。

谷幸雄自身も、天神真楊流を家伝として学ぶ一方で、不遷流第四代の田辺又右衛門との交流や、大阪にあった半田弥太郎の大東流柔術道場で修行した経験も持つなど、広く武術を修めていたようです。

異国への挑戦：ロンドンでの足跡

谷幸雄の人生の大きな転機は、1900年、19歳の時に訪れます。バーティツの創始者であるエドワード・ウィリアム・バートン＝ライトの招きを受け、兄の谷鑛馬や柔術家の山本セイゾウと共にロンドンへと渡りました。兄と山本は比較的早く日本へ帰国しましたが、谷幸雄はロンドンに留まることを選び、同じく渡英していた若き柔術家、上西貞一と共に、バートン＝ライトが開設したバーティツの道場で柔術の指導にあたります。

1903年には、バートン＝ライトのもとを離れ、「スコットランドのヘラクレス、アポロ」として知られた興行師、ウィリアム・バンキアーと手を組みます。バンキアーの巧みなマネジメントのもと、谷はプロフェッショナルな格闘家として、ロンドンのミュージックホールに設営されたリングで一般からの挑戦者を受け付けるようになります。「15分間耐えれば20ギニー、勝利すれば追加100ポンド」という破格の賞金を提示して挑戦者を募り、これに対して谷は関節技や絞め技を駆使して次々と退け、圧倒的な強さを見せつけました。ミュージックホールでのプロ活動を通して、谷が敗北を喫したのは、1905年に日本人柔術家の三宅多留次（後の三宅タロー）と対戦した際の一度のみだったと言われています。オックスフォード・ミュージック・ホールでの興行では、わずか1週間に33人もの挑戦者と対戦し、中にはヨーロッパで名を知られたレスラーも含まれていました。6ヶ月間のツアー全体では、1週間平均20人、総計500人を超える挑戦者を打ち破るという驚異的な記録を残しています。

当初、試合は挑戦者も柔術ルールに従い、制限時間なしで行われました。当時のヨーロッパのレスリング界にとって、柔術のルールは全く異質なものであり、これは谷にとって非常に有利に働きました。時代が下り、1920年代になると、谷は挑戦者に対してあらゆる技の使用を許可するようになりますが、一つだけ条件を付けました。それは、お互いに柔術着を着用することです。これは、自分よりも体格の勝る相手と戦う上で、組み手や投げ技、寝技の展開において、谷にとって重要なアドバンテージとなったと言えます。

教育と柔道への道

谷幸雄は試合活動と並行して、柔術の指導にも力を入れました。1904年には、三宅多留次と共同で、ロンドンのオックスフォード・ストリートに「日本柔術学校 (Japanese School of Jujutsu)」を開設しています。この学校は約2年で閉鎖されましたが、舞台女優のマリー・スタッドホルムなどが生徒として学んでいました。また、1906年には、三宅との共著で、柔術の技術解説書である「The Game of Ju-jitsu - for the Use of Schools and Colleges」を出版し、柔術の普及に貢献しています。

名だたる強豪との因縁

谷は、当時のプロレス界の王者、「ロシアのライオン」ことジョージ・ハッケンシュミットに対して公然と挑戦状を叩きつけたことでも知られています。ハッケンシュミットはこれを無視しましたが、谷とバンキアーは諦めず、1903年のハッケンシュミット対アントニオ・ピエリ戦の直後、観衆の見守る前で再度挑戦状を手渡すという行動に出ました。ハッケンシュミットは柔術に不慣れであることを自覚しており、得意とするグレコローマンスタイルでの対戦を要求しましたが、結局この世紀の対決は実現しませんでした。しかし、ハッケンシュミットは自身の著書「The Complete Science of Wrestling」（1909年）の中で、レスラーを目指す者には柔術を学ぶことを推奨しており、谷の影響がうかがえます。また、1910年には、ロンドンに滞在していたインドの伝説的レスラー、グレート・ガマにも挑戦しようとしましたが、これも実現には至りませんでした。

講道館との繋がりと晩年

1907年に前田光世（後のコンデ・コマ）がイギリスを訪れた際、谷の道場で一時指導にあたっています。他流試合の場でも谷と前田は協力関係を築きました。前田光世は谷と親密な交流があり、谷について「警視庁で山下七段（山下義韶）の門人として初段になり、渡英後、幾多の苦戦を経て居る老巧者で、実力以上に勝負が巧みだ」と評しています。このことから、谷が渡英前に、家伝の柔術とは別に、講道館柔道にも入門していた可能性が指摘されています。

1918年、谷は小泉軍治がロンドンで創設した武道会に初代師範として迎えられ、当初は柔術を指導していました。1920年には、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が武道会を訪問し、谷は小泉と共に講道館柔道の二段位を授与されました。その後も昇段を重ね、最終的には四段まで進んでいます。

1937年に脳梗塞を患った後も、谷は1950年1月24日に亡くなるまで、武道会で指導を続けました。晩年には、後にアメリカでプロレスラーとして活躍するロード・アルフレッド・ヘイズなどを育てています。

谷幸雄は、体格のハンディキャップを卓越した柔術・柔道技術と巧みな戦略で克服し、異国の地で日本の武道を広めるために尽力しました。彼の活動は、後の海外における柔道や日本の格闘技普及の礎を築いたと言えるでしょう。

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