野辺地尚義

野辺地尚義（のべちたかよし／なおよし、文政8年（1825年） - 明治42年（1909年）3月3日）は、幕末から明治にかけて活躍した日本の蘭学・英学者、教育者、実業家です。彼は「日本の英学教育の始祖」と称され、日本初の公立女学校を創設したほか、芝紅葉館の経営を通じて明治の民間外交を陰で支える重要な役割を果たしました。

学問への道と幕末の動乱

文政8年（1825年）、陸奥国稗貫郡亀ヶ森村（現在の岩手県花巻市）に生まれた尚義は、安政3年（1856年）に南部藩の江戸詰となり、長州藩士であった大村益次郎のもと、江戸の蘭学塾・鳩居堂で蘭学を修めました。この時期、勝安芳（勝海舟）や杉田玄瑞、大鳥圭介といった当時の先進的な知識人たちと交流を深めます。江戸の長州藩邸内では蘭学教授を務め、木戸孝允や伊藤博文ら、後の明治政府の重鎮となる若者たちと親しくなりました。しかし、ある時讒言によって南部藩邸内で捕らえられ、死刑の判決を受けるという危機に瀕しますが、大村益次郎の尽力により刑の執行を免れることができました。

九死に一生を得た後、尚義は長崎へ向かい、出島でオランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから3年間にわたり英学を学びました。鳩居堂時代の盟友であり、シーボルトの娘である楠本イネも同時期に長崎で学んでいました。長崎からの帰途、萩の長州藩邸に立ち寄り、若手藩士たちに蘭学と英学を教えました。この時の教え子の中には、文久3年（1863年）にイギリスへ派遣された「長州ファイブ」（伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉）が含まれていました。彼らに海外の知識をもたらした功績から、尚義は「日本の英学教育の始祖」と呼ばれるようになりました。慶応2年（1866年）からは京都留守居役として国家の動向に関する情報収集にあたるなど、幕末の混乱期において、尚義は蘭学や英学によって培われた知識を基盤に、多様な活動を展開しました。これらの経験が、維新後の彼の人生を決定づけることになります。

日本初の女学校創設に尽力

明治維新後、尚義は京都府に迎えられ、京都府員に任ぜられました。京都府立の英語、仏語、独語それぞれの語学学校の監督を委ねられます。そして明治5年（1872年）4月14日、上京区の旧九条邸跡地に、日本で最初の公立女学校となる「新栄学院女紅場（にょこうば）」を設立しました。東北出身の武士であった尚義が、女子教育機関の校長に選ばれた背景には、彼の優れた英語力がありました。当時の京都府知事は開明的な人物であり、女紅場では文明開化の潮流に乗って、いち早く英語を教科に取り入れたのです。その英語力を買われて、尚義が教師兼校長に抜擢されたのは自然な流れでした。

尚義は10年間にわたり女紅場の校長を務めました。この学校には、同志社大学創設者・新島襄の妻である新島八重も教師として参画していました。明治5年（1872年）5月には、福澤諭吉が早矢仕有的（はやしゆうてき）とともに女紅場を訪れ、その印象を『京都学校の記』に記しています。福澤は、外国人教師による英語や裁縫の授業、そして学ぶ生徒たちの様子を詳細に描写し、「この学校は中学の内にて最も新なるもの」と評価しました。生徒たちの清潔で慎ましい身なりや、物言わずとも温和な容貌を見て、「花の如く、玉の如く、愛すべく、貴ぶべく、真に児女子の風を備えている」と感銘を受けています。さらに福澤は、女子教育の重要性を力説し、「文明開化の名を実にし、我が日本国をして重からんしめんには、これ子女に依頼せずにして他に求むべきの道あらざるなり」と述べています。これは、福澤の掲げる「独立自尊」の精神とも呼応するものでした。

明治10年（1877年）2月1日には明治天皇が、2月9日には皇太后と皇后が女紅場を行啓し、学校は国内外から注目を集めました。当時の新聞報道からは、生徒たちが美しく装って出迎え、英語教師や生徒が祝辞を述べたり、英語や裁縫の授業を披露したりした様子がうかがえます。このように世間の注目が集まる中でも、校長の尚義自身は表に出ることを避け、ひたすら教育内容の充実に力を注ぎました。

新栄学院女紅場は、その後京都府立第一高等女学校を経て、現在は京都府立鴨沂（おうき）高等学校となっています。また、尚義が監督を務めた京都府立語学学校を前身とする京都府立洛北高等学校は、日本最古の旧制中学校の一つとして創立され、かつては京都大学へ多くの進学者を輩出し、ノーベル賞受賞者である湯川秀樹や朝永振一郎も卒業生に名を連ねています。

芝紅葉館での「民間外交」

女学校での教育に情熱を注いでいた尚義の人生は、再び大きな転機を迎えます。明治12年（1879年）春、西南戦争が収束し、自由民権運動が台頭し始めた頃のことでした。明治初期の有名な英学者で後に読売新聞社社長となる子安峻、三菱財閥の岩崎弥太郎、日本鉄道会社社長を務めた小野義眞といった実業界の大物たちから、芝紅葉館の総支配人（幹事）就任を打診されたのです。

紅葉館は明治14年（1881年）に開業した高級社交場です。13名の出資によって経営されていましたが、社長は置かず、諸事を統括する「幹事」を置き、この任に尚義が就きました。紅葉館はすぐに政財界や文化人の重要な会合の場となります。開業初期には、尚義の知己であり、日本の新聞・雑誌の先駆者である柳川春三の追悼会が開かれ、発起人には神田孝平、福沢諭吉、福地源一郎、加藤弘之、津田真道、津田仙といった錚々たる顔ぶれが名を連ねました。明治26年（1893年）に合資会社として再出発した際も、小野義眞、川崎金次郎、安田善次郎らとともに尚義も主要な出資者として経営に関与しました。

紅葉館の設立目的について、後の早稲田大学学長である高田早苗は「当時の上流社会の人々のために優雅な遊び場所をつくろう」という意図があったと記しています。そのため、紅葉館では女中の選抜と教育に特別な力が入れられました。美しさだけでなく、教養のある旧武士の娘などを採用し、芸事や英会話の特訓を行いました。この女中教育の総指揮にあたったのが尚義でした。京都の女紅場での学校経営や英語教育の経験が、ここでも大いに活かされたのです。女中たちが披露する「紅葉館踊り」は、来賓として訪れた外国の高官たちを魅了しました。尚義は、明治14年の開業から実に29年間、紅葉館の事実上の経営者として、明治日本の「民間外交の陰の立役者」として活躍しました。

紅葉館は昭和20年（1945年）まで60年以上にわたり運営されました。その跡地には現在、東京タワーが建っており、往時の面影はありません。しかし、わずか7年で幕を閉じた鹿鳴館とは異なり、明治、大正、昭和の三代にわたって日本の民間外交の重要な舞台であり続けたのです。

明治42年（1909年）3月3日、尚義は風邪をこじらせ、85歳でその波乱に富んだ生涯を閉じました。彼の墓所は青山墓地にあります。

親族

尚義の親族には、次女の利阿（宣仁親王妃喜久子の語学教師）、孫でピアニストの野辺地勝久（瓜丸）、曾孫でエラスムス平和研究所所長の岩村義雄などがいます。甥には海軍大将の山屋他人がおり、玄孫の野邊地えりざは尚義の生涯に関する書籍を著しています。

野辺地尚義の生涯は、幕末の激動期における新しい学問の探求から始まり、明治期における女子教育の確立、そして国際交流を支える民間社交場の経営へと展開しました。それぞれの分野で先駆的な役割を果たした彼の存在は、日本の近代化において見過ごすことのできない貴重な足跡を残しています。

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