黒江屋

東京都中央区日本橋に暖簾を掲げる黒江屋（くろえや）は、長い歴史を持つ漆器の専門店です。その正式な商号は株式会社黒江屋といいます。

創業と起源

黒江屋の創業は古く、元禄二年（1689年）にまで遡ります。初代の人物（氏名不詳）は、良質な漆器の産地として名高い紀伊国名草郡黒江村（現在の和歌山県海南市黒江）から、江戸の地へと移り住み、漆器店を開きました。この出身地にちなんで、「黒江屋」という屋号が付けられたと伝えられています。創業当初、店舗は日本橋本町の四丁目に位置しており（現在の二・三丁目に相当）、以来代々の当主は「黒江屋太兵衛」の名を襲名し、商いを営んでいました。

経営権の継承

事業の歴史において大きな転換期を迎えたのが、安永三年（1774年）のことです。この年、黒江屋の創業家は紀州黒江村へと帰郷することとなり、店舗の経営権は京都を拠点とする有力商人、柏屋の当主である孫左衛門に引き継がれました。興味深いことに、この経営権の移転と同時期に、黒江屋の店舗も本町から日本橋通一丁目の現在地へと場所を移しています。

顧客層の変遷と激動の時代

江戸時代の黒江屋は、主に大名などの武家や、明治時代には華族といった社会の上層階級を主要な顧客とし、極めて高品質な高級漆器を取り扱っていました。しかし、大正十二年（1923年）に発生した関東大震災以降、より幅広い層に向けた一般向けの漆器にも取り扱いを拡大していきます。昭和二十年（1945年）の東京大空襲では、懸命に守り続けてきた店舗が惜しくも焼失してしまうという悲劇に見舞われます。それでも商いを諦めず、翌年の二月には仮設のバラックを建てて営業を再開するという不屈の精神を見せました。第二次世界大戦後の混乱期には、漆器だけでなく様々な商品を扱う必要に迫られました。この時期、客が古物商と間違えて持ち込んできたものの中に、現在の店舗に展示されている日本橋の擬宝珠（万治元年・1658年銘）があったと言われています。この擬宝珠は、黒江屋が歩んできた長い歴史と、江戸から現代に至る日本橋の変遷を見守ってきたかのように店頭に佇んでいます。

黒江屋を支えた柏原家

黒江屋の経営を引き継いだ柏原家は、加藤清正の家臣であった柏原郷右衛門を祖とする由緒ある家系です。柏原家が京で創業した「柏屋」は、寛永年間、あるいは正保二年（1645年）に初代三右衛門が京都の問屋町に店舗を構えたことに始まります。当初は京小間物や扇子を取り扱っていましたが、次第に木綿問屋へと業態を変化させ、蝋燭や雪駄なども手広く扱うようになりました。天和・貞享年間には、黒江屋と同じ江戸の本町四丁目に支店を開設し、京に本店を持ちつつ江戸でも商売を行う「江戸店持京商人」として活動を展開します。二代目孫左衛門、三代目助右衛門と事業は引き継がれ、享保四年（1719年）には四代目の孫左衛門光忠が、有力商人である那波屋九郎左衛門祐英の娘を妻に迎え、夫婦二人三脚で柏屋の経営規模をさらに拡大していきました。

柏原家は、安永三年（1774年）には同郷同町にあった漆器問屋の黒江屋太兵衛から、そして天明元年（1781年）には新両替町四丁目（現在の銀座四丁目に相当）にあった紙問屋の松坂屋半右衛門から、それぞれ経営権を取得しました。これにより、江戸には柏屋を含む三つの店舗を持つ多角的な経営体制を確立します。柏原家の当主は変わらず京都に住み続け、江戸店の売り上げは毎年京都へと送金されましたが、別家制度を導入することで、江戸店の番頭にも一定の裁量権が与えられていました。江戸の柏屋は、寛政年間に作成された呉服太物問屋の長者番付において、東の大関に位置づけられるほど、その商圏と財力は巨大なものでした。

明治時代に入り、木綿業が時代の変化に対応できなくなると、九代目の孫左衛門は明治十七年（1884年）に東京で神戸製紙所（現在の三菱製紙）の一手販売代理店を開設し、事業の柱を転換しました。その後、大正十三年（1924年）に株式会社柏原洋紙店、昭和五十年（1975年）に柏原紙商事株式会社と社名を変更し、現在に至っています。

柏原家が代々京都で暮らした屋敷の一部は、宝暦十三年（1763年）に建てられたものが天明の大火を奇跡的に免れて今も現存しています。この建物は、江戸時代の商家の暮らしや商いの様子を今日に伝えており、昭和四十九年（1974年）からは『洛東遺芳館』として、年に二回一般公開されています。館内には、享保二十一年（1736年）正月の「家内定法帖（帳）」や宝暦五年（1755年）の「条目」、明治十六年（1883年）正月の「店定法示合心得書」といった、家訓や経営哲学を示す貴重な資料が保管されています。また、享保十五年（1730年）から明治二十二年（1889年）までの膨大な決算簿や、土地の権利証を示す沽券図なども伝来しており、柏原家の堅実な経営と長い歴史を物語っています。

黒江屋と柏原家、それぞれの歴史が交錯し、現代へと受け継がれてきたこの物語は、単なる商いの記録に留まらず、日本の商業史の一端を垣間見せてくれる貴重な存在と言えるでしょう。

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