アトモスフェール

アトモスフェール (Atmosphères)

『アトモスフェール』は、ハンガリー出身の作曲家ジェルジ・リゲティによって1961年に書かれた管弦楽曲です。この作品は、従来の楽曲が持つ明確な旋律やリズムといった要素を排し、音響そのものに焦点を当てた革新的な試みとして知られています。全編が複雑に積み重ねられた音の塊、すなわち「トーン・クラスター」によって構成されており、通常の管弦楽器を用いながらも、これまでのオーケストラ作品にはない、神秘的で静的な響きを生み出しています。

リゲティの作品の中でも特に名の知られたものの一つであり、これはスタンリー・キューブリック監督の1968年の映画『2001年宇宙の旅』で用いられたことに大きく起因します。同じくリゲティ作曲の『レクイエム』や『ルクス・エテルナ』と共に劇中で印象的に使用されたことで、現代音楽に馴染みのない人々にもその存在が広く知られるようになりました。演奏時間は約9分です。

音楽的特徴と背景

本作の最も顕著な特徴は、耳で追えるような旋律が存在しない点にあります。開始から終結まで途切れることなく続く、半音階的に密集したトーン・クラスターは、あたかも無数の蜂の羽音のように、あるいは空間を満たす濃密な霧のように響き渡り、初演時の聴衆に強い衝撃を与えました。リゲティ自身はこの時期の自身の音楽様式を「超飽和状態の半音階法」と「静的形式」という言葉で表現しています。

トーン・クラスターという技法自体はリゲティ以前にも多くの作曲家が部分的に使用していましたが、『アトモスフェール』ではそれを楽曲全体の主要な構成要素として徹底的に展開させている点が、他の作品との決定的な違いであり、本作の革新性を示しています。

作曲の背景には、リゲティがハンガリーから亡命後、ヘルベルト・アイメルトの招きでケルンの電子音楽スタジオでの活動があったことが挙げられます。彼はここで電子音楽作品『グリッサンディ』（1957年）や『アルティクラツィオーン』（1958年）を制作し、音の操作に関する新たな技術や概念を獲得しました。この電子音楽での経験から得た発想が、管弦楽作品へと応用され、『アパリシオン』（1958-1959年）に続き、この『アトモスフェール』へと結実したと考えられています。

特に興味深いのは、未完成に終わった電子音楽作品『Pièce électronique no. 3』（1957-1958年）が、当初『アトモスフェール』という同じタイトルを持っていたことです。リゲティ本人は両者の直接的な関連性を否定していますが、静的な特性や楽曲の開始方法などに共通点が見られることから、『アトモスフェール』は電子音楽作品における音響合成の手法を、管弦楽の音塊や楽譜上の時間軸に置き換えて実現された作品であると解釈する向きもあります。

構造と献呈

本作は、音響的な塊として聞こえる一方で、楽譜には個々の楽器の正確な音高やリズムが極めて緻密かつ確定的に記されています。これは、偶然性を取り入れた当時の他の前衛音楽とは一線を画す特徴です。

また、この作品は単なる音響実験に留まらず、リゲティが1960年に亡くなった同郷の作曲家シェイベル・マーチャーシュの追悼として、レクイエムとして書かれたという側面を持っています。楽曲の中ほどに現れる、ピッコロの最高音から突如としてコントラバスの最低音へと急降下する劇的な音の動きは、聴く者に伝統的なレクイエムにおける「怒りの日（Dies Irae）」冒頭のような強烈な印象を与えます。

それに続く部分は、無数の細分化された声部が同時に進行することで、それぞれの独立した線が溶解し、全体として微細な音の粒子が密集した音響の層を形成する「ミクロ・ポリフォニー」と呼ばれるリゲティ独自の技法が効果的に用いられています。

初演と録音

『アトモスフェール』の初演は1961年10月22日、ドイツのドナウエッシンゲン音楽祭で行われました。ハンス・ロスバウト指揮、南西ドイツ放送交響楽団による演奏でした。日本での初演はそれから数年後の1966年5月1日、日生劇場にて、小澤征爾指揮、読売日本交響楽団によって行われています。

長期にわたり、この作品の主要な録音としては、1963年のエルネスト・ブール指揮による南西ドイツ放送交響楽団の演奏が中心でした。映画『2001年宇宙の旅』のサウンドトラックや、リゲティ作品で知られるWERGOレーベルのCDなどもこの音源を使用していたため、容易に入手できる音源が限られている時期がありました。しかし、その後、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による1988年の録音（「ヴィーン・モデルン」プロジェクトの一環）を皮切りに、優れた新録音が次々と登場し、現在では様々な演奏でこの作品を聴くことができるようになっています。

編成

本作は四管編成を基本とする、大規模なオーケストラのために書かれています。使用楽器は以下の通りです：

フルート 4名（全員がピッコロ持ち替え）
オーボエ 4名
クラリネット 4名（4番奏者は小クラリネット持ち替え）
ファゴット 3名
コントラファゴット 1名
ホルン 6名
トランペット 4名
トロンボーン 4名
チューバ 1名
ピアノ 1台（2名の奏者で演奏）
* 弦五部（ヴァイオリン I: 14名、ヴァイオリン II: 14名、ヴィオラ: 10名、チェロ: 10名、コントラバス: 8名 - うち1番から3番の奏者は第5弦を使用）

特徴的なのは、打楽器が一切使用されない点です。また、ピアノは鍵盤を叩く通常の奏法ではなく、弦をブラシなどで擦る内部奏法のみが指定されています。トーン・クラスターを緻密に実現するため、特に弦楽器セクションでは、各奏者がそれぞれ異なる音を担当することがあり、スコア上の段数が最大で87段にも及ぶ箇所が存在するなど、その書法は非常に複雑です。

映画『2001年宇宙の旅』での使用

スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』では、物語のクライマックスにあたる「スターゲート」のシークエンス全体にわたって、この『アトモスフェール』全曲が使用されています。映像の尺が楽曲の演奏時間より長いため、音楽が途中でループ再生される形で用いられています。この圧倒的な音響と映像の融合は、映画史においても特筆すべきものであり、作品の持つ不穏かつ荘厳な雰囲気を際立たせています。

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