アミガサ事件

アミガサ事件と有吉堤

1914年9月16日、多摩川下流域の住民たちは、長年にわたる洪水被害に耐えかね、神奈川県庁へ大規模な請願デモを敢行しました。この事件は「アミガサ事件」と呼ばれ、その後の多摩川治水に大きな影響を与えました。

背景：暴れ川・多摩川の歴史

「荒多摩川」とも呼ばれた多摩川は、古くからその激しい流れで、下流域の住民を苦しめてきました。江戸時代には、223年間で37回もの大洪水が記録され、約6年に一度のペースで甚大な被害をもたらしていました。19世紀初頭に編纂された『新編武蔵風土記稿』にも、稲毛領の多くが洪水による被害を頻繁に受けていたことが記されています。

明治時代に入ってからも、小規模な洪水は頻発し、多い時には年に3回も出水したといいます。特に1907年と1910年の大水害は壊滅的な被害をもたらし、家屋の流失や広範囲な冠水が発生しました。住民たちは、大雨が降るたびに家財を高い場所に移動させ、中二階を設けるなど、洪水に対する備えを余儀なくされていました。

1891年には、お雇い外国人のヨハニス・デ・レーケが多摩川の治水調査を行いましたが、政府の財政難から、具体的な対策は講じられませんでした。その後、1907年の大洪水は、住民たちの活動を活発化させ、神奈川・東京の村長や地主らが「多摩川河身改修請願」を提出しましたが、東京府と神奈川県の境界が複雑に入り組んでいたため、交渉は難航しました。また、国策としての帝都防衛の観点から、多摩川での築堤は認められませんでした。

アミガサ事件の勃発

大正時代に入ると、再び大洪水が頻発するようになります。1914年8月の洪水では、御幸村選出の橘樹郡会議員である秋元喜四郎が、水防活動中に濁流に飲み込まれそうになり、九死に一生を得ました。この経験から、秋元は住民の直接行動こそが現状を打開する唯一の手段だと考え、小倉、鹿島田、北加瀬などの代表者と協議を重ねます。

その結果、1914年9月16日、住民たちは羽織を着用せず、草鞋を履き、編み笠を目印として、神奈川県庁へ請願に向かうことを決定しました。これは、警察の目を欺くための工夫であり、一種のデモ活動でした。各村の住民は、それぞれの場所に集結し、鶴見橋を避けて末吉橋を渡り、県庁を目指しました。

当日、県庁には500人以上の住民が集結しましたが、警察の統制を受け、ほとんどの参加者は横浜公園で待機させられました。各村の代表者10名は、知事の石原健三との面会を許され、洪水の惨状と築堤の早期実現を訴えましたが、この時点では築堤の許可は下りませんでした。

多摩川築堤期成同盟の結成

アミガサ事件による大規模な抗議活動は、直接的な成果には結びつきませんでしたが、この出来事がきっかけとなり、「多摩川築堤期成同盟」が結成されました。同盟には11の村が参加し、築堤運動はさらに大きなうねりとなっていきました。そして、1914年10月12日、石原知事が現地を視察することとなり、同盟の活動は一つの結実をみました。

有吉堤の建設

1915年、神奈川県知事が有吉忠一に代わると、事態は大きく進展します。有吉は水害問題に真摯に取り組み、河川改修の許可を内務大臣に申請しますが、以前の却下を理由に認められませんでした。そこで有吉は、「郡道の改修」という名目で、旧橘樹郡道をかさ上げし、堤防として利用するという奇策に出ます。この方法であれば、内務大臣の許可を得る必要がなく、神奈川県単独で工事を進めることができました。

住民も工事に積極的に参加しましたが、多摩川対岸の東京府荏原郡の住民が工事中止を訴え、内務省から工事中止命令が出てしまいます。しかし、有吉はこれを無視して工事を続行したため、懲戒処分を受けます。それでも有吉は諦めず、国を説得し、東京側の堤防よりも低くするという条件で工事を再開させ、1916年9月30日に竣工させました。

12月18日には竣工式が盛大に開催され、有吉の功績を称えて、この堤防は「有吉堤」と名付けられました。しかし、有吉堤の完成によって、中丸子の渡しが消滅し、一部の耕作地が失われるという側面もありました。

有吉堤の諸元と現在

有吉堤は、御幸村上平間天神台から中原村上丸子にかけての旧橘樹郡道沿いに築かれ、全長は1.7キロメートルから2.2キロメートルとされています。

本格的な堤防の完成により、有吉堤は堤防としての役割を終えましたが、その痕跡は現在もガス橋などに残されています。

まとめ

アミガサ事件は、多摩川下流域の住民が長年抱えていた洪水への恐怖と、その解決を求める強い意志の表れでした。この事件を契機に建設された有吉堤は、住民たちの生活を洪水から守るだけでなく、その後の多摩川治水における重要な一歩となりました。

もう一度検索