エスタンシア

エスタンシア（バレエ音楽）

「エスタンシア」（Estancia）は、一般にラテンアメリカ、特にアルゼンチンやチリに見られる大規模な農場や牧場を指す言葉です。エスタンシアを中心に街が発展した例もあり、特にアルゼンチンのコルドバにあるイエズス会伝道所群はエスタンシアと一体となり、ユネスコ世界遺産にも登録され広く知られています。

本項では、アルゼンチンの作曲家アルベルト・ヒナステラ（Alberto Ginastera）が1941年に作曲したバレエ音楽『エスタンシア』作品8について解説します。これはヒナステラのバレエ音楽としては『パナンビ』に続く第2作にあたり、彼の代表作の一つとされています。アルゼンチンの広大な草原地帯「パンパ」におけるガウチョ（南米の牧童）たちの生活や、そこに暮らす人々の営みを民族色豊かに描写した作品です。後に作曲者自身によって組曲版（作品8a）が編纂され、今日ではこの組曲が原曲に比べてはるかに頻繁に演奏されています。

作品概要と音楽的特徴

『エスタンシア』は、アルゼンチンの民族音楽を基調としながらも、イーゴリ・ストラヴィンスキーなどに代表される20世紀初頭の原始主義音楽の影響も強く受けています。そのため、音楽は民族的な要素と現代的な響きが融合しており、特に変拍子や反復されるリズムパターン（オスティナート）が多用されているのが特徴です。演奏にはオーケストラに加えてピアノと多数の打楽器が必要とされるなど、標準的な編成とはやや異なる形態をとります。なお、バレエ全曲版では、一人のテノール歌手（兼ナレーター）が加わり、アルゼンチンの国民的詩人ホセ・エルナンデスの叙事詩『マルティン・フィエロ』からの抜粋を朗読または独唱します。

ヒナステラはこの作品の作曲に際し、実際にアルゼンチンの農村地帯を訪れており、その体験が農場の一日の生活描写にリアリティを与えています。

作曲と初演の経緯

このバレエ音楽は、著名な振付家ジョージ・バランシンを芸術監督に迎え、南米ツアーを計画していたアメリカン・バレエ・キャラバン（アーロン・コープランドのバレエ音楽『ビリー・ザ・キッド』の委嘱元としても知られる）からの依頼によって作曲されました。しかし、委嘱元のバレエ団が活動を停止してしまったため、残念ながらバレエ全曲版の初演は作曲から大幅に遅れ、1952年まで待たなければなりませんでした。

全曲版の初演が不可能となった状況を受けて、ヒナステラは原曲の中から4曲を選び出し、コンサート組曲を編纂しました。この組曲版の初演は1943年に行われ、大きな成功を収めました。この成功によって、ヒナステラはアルゼンチンのクラシック音楽界における主要な作曲家としての地位を確固たるものとしたのです。

日本においては、組曲版が1956年11月11日に上田仁指揮の東京交響楽団によって初演されています。また、組曲の一部は吹奏楽用にも編曲されており、日本の吹奏楽愛好家の間でも広く知られています。

全曲版について

全曲版の初演は、組曲版の初演から9年後の1952年、ブエノスアイレスのコロン劇場にて、マイケル・ボロフスキーの振付によって行われました。作曲されて以降、演奏機会は組曲版に比べて圧倒的に少ないのが現状です。

バレエは1幕5場で構成されており、それぞれの場は夜明け、朝、昼、夜、そして再び夜明けを描写することで、アルゼンチンの農場における一日を表現しています。音楽には随所でテノールによる『マルティン・フィエロ』からの朗読や独唱が挿入されます。全曲版の録音としては、ジゼル・ベン＝ドール指揮ロンドン交響楽団によるものが知られています。

組曲版について

日本では「組曲『エスタンシア』」として広く親しまれていますが、正式名称はスペイン語で「Estancia (Quatro Danzas del Ballet)」、英語では「Dances from Estancia」となります。全曲版でも演奏時間は30分程度ですが、作品が演奏される機会がないことを懸念したヒナステラが、自身の判断で組曲を編纂しました。組曲版の初演は1943年5月12日、フェルッチョ・カレージョ指揮によりブエノスアイレスのコロン劇場で行われ、初演から大きな成功を収めました。

組曲は以下の4曲で構成されています。

1. 農園で働く人々（Los Trabajadores Agricolas）
全曲版の第2場第2曲にあたります。農園での活気あふれる労働風景を描写した音楽です。
2. 小麦の踊り（Danza del Trigo）
全曲版の第2場第1曲。朝の農場の仕事が始まる前の静けさを表現しています。
3. 大牧場の牛追い人（Los Peones de Hacienda）
全曲版の第2場第3曲の前半部分です。馬を駆って牛を追い立てる、たくましく活発なガウチョたちの姿を描写しています。複雑な変拍子が印象的です。
4. 終幕の踊り（マランボ）（Danza Final (Malambo)）
全曲版のフィナーレに相当する楽曲です。全員でアルゼンチンの代表的な民族舞踊である「マランボ」を踊る場面を描いています。組曲版を構成する4曲の中で最も有名で、単独でアンコールピースとして演奏される機会も多い曲です。なお、ヒナステラのピアノ曲『マランボ』作品7とは全く異なる曲です。

近年、指揮者のグスターボ・ドゥダメルがこの組曲、特に終幕の踊りを積極的に演奏会に取り上げており、再び注目度が高まっています。

編成

バレエ全曲版および組曲版の編成は以下の通りです。

ピッコロ
フルート2（うち1はピッコロ持ち替え）
オーボエ2
クラリネット2（B♭管）
ファゴット2
ホルン4（F管）
トランペット2（C管）
打楽器群（奏者8名）：ティンパニ、トライアングル、タンバリン、カスタネット、スネアドラム、テナー・ドラム、シンバル、バスドラム、タムタム、シロフォン
ピアノ
弦五部

他楽器への編曲

『エスタンシア』は様々な楽器編成に編曲されています。

ピアノ編曲版: ヒナステラ自身による第1場第2曲「小舞曲（Pequenza Danza）」のピアノ編曲版があります。また、全曲版のピアノ譜も出版されています。
吹奏楽編曲版: 組曲版を中心に複数の吹奏楽編曲版が存在します。
ギター編曲版: ホルヘ・マルティネス・サラテによる「バレエ『エスタンシア』からの3つの舞曲（Three Dances from Estancia）」は、2挺のギターのために編曲されており、「小麦の踊り」、「黄昏の牧歌（Idilio Crepuscular - 全曲版第3場第3曲）」、「小舞曲（全曲版第1場第2曲）」の3曲で構成されます。
上記以外にも、演奏家自身による独自のアレンジ版が存在します。

もう一度検索