エリュトゥラー海案内記

『エリュトゥラー海案内記』：古代インド洋貿易の羅針盤

『エリュトゥラー海案内記』（Periplus of the Erythraean Sea）は、古代インド洋を取り巻く海洋貿易の実態を克明に描いた、極めて貴重な航海案内書です。ギリシャ語で書かれ、1世紀半ば頃の成立と推定されています。著者はローマ領エジプトに住むギリシャ人航海者であったと考えられており、その詳細な記述は、当時のインド洋貿易の盛況を物語っています。

季節風貿易と交易ルート

この書は、季節風を巧みに利用した遠洋航海に従事する貿易業者を主な対象として書かれたと考えられています。当時、ローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝の間では活発な貿易が行われており、その航路や交易品に関する情報を網羅的に提供しています。単なる航海案内にとどまらず、各港湾における貿易品や各地の特産物に関する記述も詳細で、現代の研究者にとっても貴重な情報源となっています。

広範囲にわたる地理的記述

『エリュトゥラー海案内記』は、紅海からペルシャ湾、アラビア海、さらにインド洋、ベンガル湾へと広がる、広大な海域をカバーしています。アフリカ東岸、ソコトラ島、インダス河口、セイロン島（スリランカ）、マレー半島といった、当時の主要な港湾都市や交易拠点に関する情報が記されており、当時の地理的認識や航海技術のレベルを知る上で貴重な手がかりとなります。また、中国を「ティーナ (Thina)」という名称で紹介し、絹の産地として記述している点も注目に値します。「秦」に由来する呼称と考えられており、東西交易における中国の重要性を示唆しています。

「エリュトゥラー海」の意味

書名にある「エリュトゥラー」(Ἐρυθρά) はギリシャ語で「赤」を意味します。そのため「エリュトゥラー海」は「紅海」を指しますが、この書においては、紅海に加えて、ペルシャ湾、オマーン湾、アラビア海、インド洋、そしてベンガル湾を含む、より広範な海域を指す名称として用いられています。現代のエチオピアに隣接するエリトリアという国名は、この「エリュトゥラー」に由来しています。

歴史的価値

『エリュトゥラー海案内記』は、1世紀頃のインド洋周辺地域に関する情報を提供する、極めて貴重な一次史料です。この時代に関する情報は限られているため、本書は、当時の貿易、航海技術、文化交流、そして地理的認識などを理解する上で、なくてはならない存在となっています。現在では、ハイデルベルク大学図書館に10世紀の写本、大英博物館に14・15世紀の写本が所蔵されています。

現代における研究

『エリュトゥラー海案内記』は、古くから多くの研究者によって翻訳・研究されてきました。日本語訳も複数存在し、村川堅太郎氏による翻訳や、より最新の訳注を付した蔀勇造氏による新訳などが、研究者や歴史愛好家の間で広く利用されています。これらの翻訳書は、古代インド洋世界の研究に大きく貢献しており、今後も歴史研究において重要な役割を果たしていくでしょう。

この書物の詳細な記述は、古代世界の貿易ネットワークや文化交流の活発さを示すだけでなく、当時の社会経済構造や地理的知識のレベルを解き明かす上で重要な手がかりを提供してくれるのです。

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