キリストの洗礼 (ティントレット、サン・シルヴェストロ教会)

ティントレット作「キリストの洗礼」

作品概要

「キリストの洗礼」（伊: Il Battesimo di Cristo, 英: The Baptism of Christ）は、ルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠ティントレットが1580年頃に制作した油彩画です。この作品は、『新約聖書』の福音書に記述されている、ヨルダン川でのイエス・キリストの洗礼をテーマとしています。このテーマで知られるティントレットまたはその工房による作品の一つであり、ヴェネツィアのサン・シルヴェストロ教会の祭壇画として、艀船頭の同業者組合デッラルテ・デイ・ペアテリ同信会によって発注されました。現在も同教会に所蔵されています。

また、ティントレットの工房あるいは息子であるドメニコ・ティントレットによるいくつかのヴァリアントが存在します。これらの作品は、オハイオ州のクリーブランド美術館、マドリードのプラド美術館、ヴェローナのサン・ジョルジョ・イン・ブライダ教会、ムラーノ島のサン・ピエトロ・マルティーレ教会に所蔵されています。

主題

イエス・キリストの洗礼は、『新約聖書』の「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」、「ヨハネによる福音書」に記述されています。これらの記述によれば、洗礼者ヨハネはラクダの毛皮を身にまとい、荒野で生活し、イスラエル全土から訪れた人々に洗礼を授けていました。

後にイエスが洗礼を受けに訪れると、洗礼者ヨハネは自分こそがイエスから洗礼を受けるべきだと述べましたが、イエスの懇願により、彼に洗礼を施しました。洗礼を受けると、イエスは天が割れて鳩の姿をした聖霊が自身の上に降りるのを目撃し、天から「これは私の愛する子であり、私の心に適う者である」という声を聞いたとされています。

作品の特徴

ティントレットは、ヨルダン川でキリストに洗礼を施す洗礼者ヨハネの姿を描いています。川の中に立つキリストに対して、洗礼者ヨハネは左手に十字の杖を持ち、川岸に立って一段高い場所からイエスの頭に洗礼の水を注いでいます。キリストの頭上では天空が開き、鳩の姿をした聖霊が3体のケルビムと共に降臨しています。洗礼者ヨハネの前景には、階段状の岩があり、そこから水が流れ落ちています。背景の風景は暗示的で、ヨルダン川の流れはヴェネツィアの潟を思わせ、依頼主である同信会のメンバーにとって重要な意味を持っていたと考えられます。

通常、キリストと洗礼者ヨハネは並んで描かれますが、ティントレットは洗礼者ヨハネを高い位置に配置することでキリストの謙虚さを際立たせています。同時に、洗礼者ヨハネがキリストの頭に水を注ぐ仕草を優雅に描いています。ティントレットはキリストの身体を明るい光で照らし、洗礼者ヨハネの身体を影で覆うことで、明暗のコントラストを効果的に用いています。

この作品からは、ヴェネツィア派のライバル達に対抗意識を燃やしていたティントレットが、彼らの作風を模倣した様子が窺えます。キリストと洗礼者ヨハネの両腕の表現は、パオロ・ヴェロネーゼの雄弁な身振りと、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの晩年の作品に似た静謐な雰囲気と撫でるような筆致が見られます。しかし、キリストと洗礼者ヨハネの逞しい身体と謙虚さを組み合わせた作風は、ティントレット独自のものといえるでしょう。

この作品は、逆にライバルの同主題の絵画に影響を与えたようで、1580年代のヴェロネーゼの作品には、ティントレットのキリストと洗礼者ヨハネのポーズに触発された箇所が見られます。

来歴

1836年から1843年の教会の内装改装時に、19世紀の祭壇に合わせて画面が拡張されましたが、1937年の修復時に元のサイズに戻されました。2003年から2004年にかけては、セーブ・ヴェネツィアによって修復され、黒く変色したワニスが除去され、塗り直されました。その結果、損傷していたために古い修復で覆い隠されていた3体のケルビムが聖霊の上部に現れました。

2018年から2019年には、ティントレットの生誕500周年を記念したヴェネツィアのドゥカーレ宮殿とワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アートでの展覧会「ティントレット　ルネサンス期ヴェネツィアの芸術家」で展示されました。

ヴァリアント

工房によるいくつかのヴァリアントが存在し、特にクリーブランド美術館とプラド美術館のバージョンは、本作品のほぼ複製となっています。クリーブランド美術館のバージョンでは、画面が横長に拡張され、左に2人、右に1人の天使が追加され、右端前景には水瓶を持つ河神の彫像が加えられ、そこから水が流れ出しています。この作品は1738年にツェルのシューレンベルク伯爵のコレクションに記録され、1775年にロンドンのクリスティーズでチェスター司教ウィリアム・マーカムに売却されました。その後、マーカムの子孫に相続されましたが、1923年に売却され、投資銀行家アーサー・サックスの手に渡り、1950年にクリーブランド美術館が購入しました。

プラド美術館のバージョンは、もともと17世紀にヴェネツィアの書記官長レオナルド・オットボーニが所有しており、後にスペイン王室のコレクションに加わりました。1818年にアランフエス王宮で記録されています。かつてはティントレットの作品とされていましたが、現在は息子のドメニコ・ティントレットの作品と考えられています。

備考

ティントレットは、サン・シルヴェストロ教会のために『ゲツセマネの祈り』も制作しましたが、この作品は1862年にイギリスの旅行家、考古学者、美術史家、美術収集家であるオースティン・ヘンリー・レヤード卿に売却され、イギリスに持ち込まれましたが、1884年に火災で焼失しました。

ギャラリー

(画像は割愛します)

脚注

(脚注は割愛します)

外部リンク

(外部リンクは割愛します)

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